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脱糞論争

初夏の風に乗って、かぐわしいニュースが流れてきた。

議会における第一野党という権力者が、その権力に対する風刺に対して、刑事告訴を行う。そのことの法的、道義的な意味については、すでにかなり議論されてきたところなので、いまさら繰り返さない。

言うまでもなく、政治的権力に対する風刺や揶揄は、自由な政治や言論の環境にとって重要な意義を持っている。

無垢な子どもの笑いが、裸の王様から透明なヴェールを剥ぎ取ったように、あるいは、ヒットラーの独裁権力に稀代のコメディアンが喜劇で対抗したように。

権力というものの「やんごとなさ」を緩め、権力を批判するためのスペースを確保するための武器として、「笑い」は古今東西の文明で代えがたい役割を果たしてきた。

だからしばしば、権力者はそうした「笑い」を規制しようとしてきたのである。

我が国においても、江戸時代、政治批判の狂歌は執拗なほど取り締まられたが、幕府が厳しく検閲を行おうとすればするほど、かえって、民衆は面白がって江戸中に幕府を揶揄する狂歌を貼って回ったというから、いつの時代も民衆というのはたくましい。

日本人は権力に対して従順だと評されるけれど、同時に、反骨精神とか判官贔屓のような心性もあわせもつお国柄でもある。権力者が風刺をしゃかりきに否定すればするほど、逆に揶揄も風刺も激しくなり、権力者の「器量」が軽んじられる結果となっていく。

「余裕のない権力者」ほど醜いものはない。それは、自己の権力に対する不信や不安のあらわれだからだ。

潰瘍性大腸炎を揶揄した「安倍ゲリゾー」のような、明らかに不当な侮蔑も許容した安倍元首相と比べると、政治家や政治政党としての器量の差を感じずにはいられない。

昔、たしか京都の鴨川で、ハングル混じりのプラカードを掲げたデモが行われたことがある。外国人参政権などを巡る運動が盛り上がった時期だった。

参加者が作ったのであろう、日の丸の太陽を糞便に改変した旗が掲げられた動画が今もニコニコ動画に残っている。

思えば、今回の「脱糞民主党」の問題の鏡写しのような風刺であると言える。

日本人としては、国のシンボルである日の丸を侮辱する表現は、甚だしく不快なものだ。

私も、昔、このデモの様子を目にしたとき、参加者たちの不見識に深く憤ったのを覚えている。

他方で、日本人と同じように日本に住みながら参政権が与えられないことに対して、在日コリアンやその支援者が憤り、その感情的なはけ口として、日の丸への侮辱的表現に及んだとして、理解は到底できないけれども、その気持ちを想像することはできる。

下品な揶揄や風刺は、けっして正当化することはできないのだけれども、風刺や揶揄は、権力のない者、弱者や少数派の人々が、強者や多数派に対してあらがうことのできる最後の手段でもある。

だからといって、全てが正しいとは決して言えないけれど、その自由は「最後の砦」として守るべきもののはずであった。

この社会に存在するいずれかの団体の感情を害するものをすべて禁止するならば、じきにこの世からは芸術も、文化も、ユーモアも、風刺も失われてしまうだろう。風刺とは本来人の感情を害するものであり、芸術や政治論文の多くもその点では同じである。これらの表現形態の持つ価値は、その危険をはるかにしのいでいる。

エリカ・ジョング(アメリカ・作家)


本来、風刺やデモなどのあらゆる手段を使って、権力や体制を批判することになるであろう左派こそ、表現の自由への抑圧に敏感であらねばならないはずだ。

にもかかわらず、いま、こうして左派が訴訟戦術を全面肯定し、どころか先頭に立って旗振りをするようになってしまったのはなぜだろうか。

少し考えてみよう。

SNS上の言論を観察する限りにおいて、どうも、この背景には、私たちの倫理観や道徳感情が作動する機序・メカニズムの変容が背景にあるらしい。

しかも、この変容は、左派だけではなく、右派も含めて、急速に情勢が変化し続けるネット言論全体の傾向として存在しているように思われる。

どういうことかと言うと、通常は、誰かが悪い行為や不正義が行われた結果として、その行為を行った人や、その人が所属する団体・党派の人々が、倫理的・道徳的に非難されるものだろう。

その非難の程度は、その行為の「悪質さ」や「不正義の度合い」によって決定されるべきなのであって、もっとも健全な言論環境においては、いかに自分に近しい、味方であるとしても、その党派的な距離とまったく無関係に非難したり、擁護したりするべきである。

ところが、現代のメディア、特にネットメディアにおいては、決定の因果がまったく逆転する。

つまり、行為の「悪さ」が先に存在して、その悪さに応じて個人や党派が批判されるのではなく、まったく逆に、その行為をした個人の属する党派によって、行為の「悪さ」が遡及的に決定されるのである。

もう少し詳しく言えば、倫理観が問われるような具体的な「事件」が発生したときに、私たちはその事件によって批判することができる対象が「敵」であるか、「味方」であるかを確認してから、遡及的に、「その行為がどれほど悪いものであるか」を決定する、という思考のプロセスを働かせるようなのである。

例えば、

「誰かにとって大切なシンボルを糞便に書き換える」

という行為の「悪さ」を抽象的次元で思惟することは、実際にはとても困難であって(なにせ人間というのは抽象的思考が苦手な生き物である)、現実に事件が発生して、はじめてその「悪さ」を具体的に思考・決定することができるようになる。

その思考のために、私たちが真っ先に目を走らせるのは、行為によって発生した被害の痛切さや行為の内実そのものではなくて、たいていの場合は、誰が・なにを・誰に対して行ったのか、もっと言えば、そのときに批判されることになる人々の党派がどれで、どの党派の人々が「被害者カード」を手に入れたのか、ということだ。

だから、糞便に書き換えられたのが日の丸なのか、それとも立憲民主党の党旗なのかによって、「誰かにとって大切なシンボルを糞便に書き換える」という抽象的な行為の「悪さ」の程度を逆説的に決定する、という思考様式が生まれる。

それが一見してどれほど些細なことであっても、対立者がしでかしたことであるとすれば、そして、自分たちの属する党派が踏みにじられたと感ぜられることであればなおさら、倫理的な悪さの程度を「無限大」まで膨らませて非難するとともに、自らを被害者としての優越的地位を確立し、審問するという手法への誘惑が強まるのである。

この手法の危うさは、そうした行為の加害者・被害者の関係性が、党派の正当性や倫理性と安直に結びつけられてしまうという点だ。その結果、自分たちは正しい思想の持ち主だから、倫理的に正しいことをするのであり、間違っている対立者は、それゆえに倫理的に劣等な行いをするのだ、という思考に引きつけられてしまう。

しかし、誤解を恐れずに言えば、そうした「悪さ」は大抵の場合、偶然的なものだ。対立者が犯すような「悪さ」は、自分たちもまた、いずれ犯してしまうものなのだ。

この「悪の偶然性」を無視しうるからこそ、対立者の犯した悪を無限大まで発散させて、おおぜいで叩くという行為が可能となる。

畢竟、これが現代のネット世界における炎上の構造のすべてであろう。

そして、対立者に投げつけた悪のレッテルが、自分たちの側にブーメランしてきたときには、自分たちの事例と対立者の事例がいかに異なるかということの弁明に追われることになる。

「ブーメラン」の指摘を跳ね返すために、極小の差異を見つけて拡大し、その差異こそが悪の本質であると断じて、内面化する。

しかし、どの人々がどのような悪をするかは、大抵の場合は偶然的なものなので、偶然と偶然が重なり合って作られた、つぎはぎだらけの倫理体系を、各人が自らの中でいびつに成長させ、無垢な審判者として対立者を裁くという闘争が無限に繰り返されることになるのだ。

いびつに成長した倫理の巨樹こそが、インターネット正義の本質である。

そして、ぐちゃぐちゃに入り組んだ偶然的倫理体系が絡まり合って、矛盾をきたす頃には、根っこのほうにあったはずの根本的な倫理問題はすっかりと忘れ去られる。この忘却こそが、このメカニズムの永続性を担保する。些細な矛盾を忘却することができるからこそ、次の敵がいるほうへ、次の標的のほうへと、倫理の枝葉を勢いよく伸ばすことができるのだ。

SNSという世界で空前の規模に膨張・加速化した政治的言論は、こうした忘却のプロセスを、かつてない速度で引き起こすようになってしまった。これが、私たちの倫理を変質させてしまった根本原因である。

とんでもない速度で進展する政治言論に対応するためには、現実を認識してから政治的言論を構成するのでは遅すぎるため、政治のほうに現実をフィットさせていくしかないからである。

そのような新しい政治的現実のもとでは、倫理によって政治が語られるのではなく、倫理さえ政治に従属するようになる。

そして、この新しい政治的現実のもとでの闘争においては、現在のところ、右派やアンチフェミニストが勝利しつつある。

Xのような短文メディアでも、Youtubeのような動画メディアでも、「バズ」をたたき出しているのは彼らであり、ときたま、フェミニストやリベラルに勢いがでることがあっても、たちまちのうちに風刺やら反論やらにまみれて、失速していくという光景が繰り返されてきた。

誤解のないように言っておくが、それは、彼らが正しいからとか、論理的であるからということを直ちに意味しない。それは単に、アカデミアやメディアの既得権益から距離があるために、新しい政治的現実に柔軟に適合することができ、結果として、インターネット世界の大衆感情の実相に近いイデオローグを構成し得ただけにすぎない。

要するに、ネットで声がでかいだけの多数者というのが、現在のネット上のアンチフェミや右派の姿だ。

しかし、同時に、現代においてはネットメディアこそが、影響力をとりあう戦いにおける主戦場だ。

そこで負けつつある人々は、外部から「正しさ」を調達するしかない。最後の手段として、裁判所とマスメディア(もっと言えば、リベラルやフェミニズムの影響力がかろうじて残っているオールドメディア)が立ち現れる。

1円でも賠償金を取ることができれば、自らの正当性の証したる勝訴であると、マスメディアを通じて大々的に喧伝する。

けれど、もちろん、この手法を取ることができるのは、リベラリストだけではない。そして、法は、党派性ほど偶然的ではない点では安定性があるけれど、ある特定の法的判断をどのように倫理的に評価するかを、法そのものは説明してくれない。そこに偶然性の介在する余地があるのだ。

こうしたいびつな倫理的闘争の果てに現出する世界は、例えばこのようなものであろう。

ある親子が仲睦まじい様子で公園を散歩していた。

親のほうは男性だったかもしれないし、女性かもしれないし、著名フェミニストだったかもしれないし、保守系のインフルエンサーだったかもしれない。

そんな些細なことは、この際、どうでもいい話だ。

初夏の風に吹かれて揺れる花を見て、子どもは歓声を挙げた。

親子は二人で花を摘み、親は花冠を作って子どもの頭に載せてやった。

そのとき、ピロンと動画撮影の開始音が鳴る。

「窃盗犯だ!」

その声を発したのは、親の人のアンチだったかもしれないし、ただの愉快犯かもしれず、バズ狙いの私人逮捕系Youtuberだったかもしれないが、ともかく、どこからともなく現れた一群の人々によって、親子は取り押さえられ、刑事告発された。

そして花泥棒の親子を撮影した動画はめでたくバズった。

「公園の花を傷つけるなんて、信じられない」

「窃盗犯は許されない。もう二度と社会に出てこられないようにしてほしい」

「花がかわいそうだとは思わないのかな。きっと日本人じゃないよ」

男性たちは「これだから女は」と女叩きに利用し、女性達は逆に男への不満を爆発させた。親がどちらの性別だったかはあえて書かないが、どちらの性別でもたぶん同じ結果になるだろう。

親子を擁護する意見もでたが、たちまちのうちに炎上してしまった。

「窃盗犯を擁護するのか?」

「公園の花を盗んでもいいと言うことは、じゃあ、お前は自分の財布を盗まれても、文句は言わないんだな?」

公園を管理している役場には、連日、被害届を提出するよう、圧力を掛ける電話が殺到した。

役場が渋っていると、暇を持て余したとある市民団体が、「公園の花は公共財産。財産を傷つけられても黙っているのは、住民への背任だ!」と息巻き、住民監査請求をちらつかせる始末。

ネットの世論に押されるようにして、本件はたちまちのうちに書類送検まで進み、不起訴処分だったか微罪だったか、ともかくなんらかの処分がくだることになった。

しかし、処分が確定するころには、もうその話を覚えている人はインターネット世界にはほとんど残っていなかった。

なぜなら、左寄りの政治的発言で知られるインフルエンサーが、自転車で右側通行をしている動画がアップロードされたからである。もちろん、車両の右側通行は道交法違反であり、許されざる大罪だ。

右も左も、新しい「炎上案件」を巡る論争に没頭していった。

花泥棒親子のその後を知るものは誰もいない。

多分、自殺でもしたんじゃないかな。

おしまい。


青識亜論