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両義的な炎・詩人阿部弘一の世界

 阿部弘一の詩の言葉に触れると、本質的に危うい傷が生々しく疼くような胸騒ぎを覚える。それは、あたかも、荒野の風景の中で、「自分の鋭い空のひかりに刺し貫かれた」(「ひまわり――証人」)精神が、その緊迫の純度をいささかも減じることなく、残酷かつ悦楽に満ちたドラマを演じる姿を、瞬きせずに見つめ続ける享楽体験に似ている。本質的な傷を蒙った存在は、宗教の方向へ行くか、テロルの方向へ行くか、どちらかしか選択肢が残されていないが、そのような危うい光景を、第一詩集『野火』の冒頭の作品において、阿部は「阿修羅像」に仮託しながら、彼自身のソウルミュージックにのせて歌った。

私は知らない
私が
空のにがい滴をくちにふくんでいるすばやい歌そのものであったか それとも
風のように触れると たちまち樹を炎えあがらせてしまう光の炎であったか

「阿修羅像(興福寺所蔵)

https://www.amazon.co.jp//dp/4783709211/

 自分という存在が、創造=歌であるのか、それとも、破壊=炎であるのか、阿修羅は自分でもわからないでいる。宗教なのか?テロルなのか?けれども、そのような問いは、意味を求める人々のものであって、阿修羅自身に確かな手触りとしてあるのは、非意味としての根源的な炎の力そのものだ。炎の棲家は、阿部によって、「夜」や「深さ」や「淵」や「内部」といった言葉で呼ばれているが、それに対して意味は昼のような計量可能な世界にある。計量化されてしまった「阿修羅像」のイメージは、阿修羅自身によって「私のあざむきのかたち」と呼ばれている。阿修羅=阿部弘一は、「昼」の論理を拒否し、「夜」の深さと「内部」を回復しようとする。

私の二重のあざむきにあざむかれ
私に飛びかかろうともしない ひとよ ひとよ
私をみようとしてふたたびここへはやつてくるな
わたしのまつさおな視野に酔う舟を漕ぎだそうとはするな
何よりも 私のあざむきの姿に
そのままたちつくしてきた拭いきれぬ「在る」ことの傷の痛さに
私を愛でるまなざしの掌をさしこもうとするな

私はほとけへの「帰順」の「忠誠」など誓っているのではない
みずからを消したいだけだ
一瞬若樹の炎えあがる気配だけを凍らせ
私が支えている天がみずからの重さで
そつと地面にかえつてきてしまつたように
或る日
台座だけが闇のなかでふと私のいないことに気付くように
あのみえない炎にかえりたいだけだ
だが いまも眉間の力を私が抜くことができないのは
もう少し もう少し耐えていれば
掌の尖を蝕しはじめている風が私の全身に火を放つと思うからだ
君たちが踵をかえし
君たちが閉じる重い扉の内側で 私をつつみかくすよるは
そのとき
火事のようにきみたちの背をてらしだすだろう

「阿修羅像(興福寺所蔵)」

 阿部弘一の言葉は、人間の意味という制度に回収される以前の、始原的な暴力としての炎を巡って常に旋回している。安藤元雄は、1927年生まれの阿部にとっての「火」を「戦火をくぐりぬけてきた世代」のものと解釈している(「彼方の火」)。おそらくその解釈は間違いではないが、阿部の描く火には、主体が主体として立ち上がる原光景における破壊と創造の痛ましさが露呈している。癒しがたい傷と引き換えに、主体が成立するのが去勢と呼ばる体験であるからだ。そのような風景を、阿部は、テロルではなく、宗教的な空間に置こうとする。阿部の本来的な資質は清冽なものであるのだろう。ただし、宗教的といっても、それはテロルの方へ傾斜するかもしれない厳しさに満ちたものだ。阿部が炎としての主体を住まわせる風景は、この世の外にあるような風景なのだから。それは「洗礼者ヨハネ」が住みかとした荒野に似ている。阿部の炎は、ナザレのイエスも一目を置いていたバプテスマのヨハネの情熱に通じている(オスカーワイルドの「サロメ」がその姿をロマンティックに描いている)。阿部の風景を以下にいつくか列挙してみよう。

いま どこか倉庫の重い扉が閉まる
すると私の内部にくらい場所が生まれる
よるよりも深く厚く  (「秋」)

死んだものたちがいつか帰つて来そうなしんとした広場
けもののひとみのように人びとの内部にみひらかれている空間 (「塔――その歴史」)

彼以外には
誰も立入る者のないひつそりとした広場 (「塔――その棟梁の死」)

私のほかは
誰ひとり通る者のいない白く乾いた道 (「道」)


 阿部作品に登場する人物は、単独者として、荒野のような風景に屹立する。それは、通常の計量可能な空間とは異なる場所であるが、疎外感覚のようなものはいたって希薄で、むしろ懐かしさの感情で充満している。「彼を誘い出す/彼の純粋な空間」(「犬」)。「みずからの深みに誘われて/おのれの内部にはてしなくとけこんで行くその掌のなかの海」(「掌のなかの海」)。「かぎりなく内部にしみわたり彼をさそいつづける彼の広場の空を」(「塔――その棟梁の死」)。「何がそこへおまえを誘い出したのだ」(「野火」)。というように、阿部の作品には「誘い出す」という行為がいたるところで反復される。

 阿部的存在は「追放されて」荒野に逃れるわけではなく、身近な存在に呼び出されようにしてそこへおもむく。この単独者が完璧なる捨て子の陰惨さを免れているのは、母の残像のようなものとのつながりを感じさせるからであろう。それゆえに、テロリストの近傍にいながらも、宗教的清冽さを読む者に印象づけることになる。とはいえ、この阿部的風景は、計量可能な空間が隠蔽した暴力と災厄を刻み込んでいるがゆえ、相対的安定の尺度が認識することが不可能な悦楽と悲劇の強度を保持している。阿部が「火事」という言葉を口にする時、そこには栄光と悲惨が不可分なまま、それ本来の強度を伝達しようという思いが込められているのだ。神聖なるそして邪悪なる現象としての火事。次のような詩句は、宗教的な暴力を生々しく言語化している。

世界ぜんたいをそして同時に彼自身を
知らずにふかくさしつらぬいている彼の瞳は
もはやおのれの内部の火から視線をそらすことはできぬ
その火を消すどんな眠りをももつことはできぬ  (「塔――その火事」)

私はふと誘われただけだ
その炎のひそやかさに
その火事の変に遠い在りかに
私のもつ最後の拡がりとして
私自身気づかずにとっておいた私の内部のふかみへと……
(略)
私はただ火事に誘われ火事に見つめられその火事そのものであろうとしていただけなのだ
     (「オルフォイス」)

 バプテスマのヨハネの情熱が伝わってくるようだ。と同時に、ヨハネらしからぬ弱さ、あるいは心優しさを、阿部が描くオルフォイスは身にまとっている。愛すべき凡庸さといってもいい。作品「オルフォイス」において、「火事」は「君らの野の明るさから断たれたひとつの暗闇として 私を/私の内部をいっそう深く育てて行ったのだ」と説明されていて、「君らの野」と「私の内部」の間には明らかな切断線が引かれているのだが、作品の別の個所では、次のような言葉が読まれる。

不意に心を外らされ私が思わず振り向いてしまったのは……
君らは覚えていてくれ
私が「冥府」などへ行っていたのではないことを
振り向きざまにそこに見なければならなかったのは
決して神話の「冥府」などではなかったと
何よりも そこでにわかに薄らいで行く私の妻の姿ではなかったことを
私の心を外らし私を振り向かせたもの それは
逆に
君らの住む野
親しかったかつての大樹
ありあまる涼しい風のそよぎであったのだということを……  

「オルフォイス」

 ヨハネのように「君らの野」に徹底して背を向け、荒野でイナゴと野蜜だけを食べて生活し、権力者の堕落を糾弾し続けた激しさとは違って、オルフォイスは「君らの野」への郷愁を容認する人間らしさを持っていた。作品「オルフォイス」には、火の激しさと涼しい風のそよぎの両方が書き込まれいて、それが作品に柔らかな広がりを持たせている。峻厳な印象の強い阿部弘一の作品の中で、このような言葉と出会うとほっとするところがあるのだが、ここでは天邪鬼となって、阿部のヨハネ的側面に加担したい。

 というのも、現在、我々の社会では、「君の野」と呼ばれるものが経済効率一辺倒の市場万能主義に占領されていて、阿部的空間が駆逐され続けているのだから。「人口減少」という経済への下降圧力もその現象に拍車をかけている。「生産性の向上」「一億総活躍社会」「働き方改革」等々、我々の社会および我々自身、経済的ファクターでしか世界を感受できなくなっている。

 阿部作品に頻出する「深さ」「内部」「闇」とは、経済的計量化から外れてゆく宗教的次元のことである。深さという秘教的なものから表面という経済的なものへの移行は、日本では1980年代に大がかりに進行したわけだが、1989年に書かれた西谷修の「数と凡庸への否と諾」は、現代の見取り図は既にハイデガーによって描かれていたと指摘する。

 だが数に還元されるのは物品だけでなく、人間もまた「数」になる。人間が「解放」されるということ、人間がみな平等な権利をもち自由な個人となるということは同時に、他と区別されない等しなみの「個」となること、つまり無差別な「マス」になるということである。だからこの「人間主義」の時代は、世界の決定が平等な個人に委ねられ、社会の方向が万人それぞれの意志によって、等しなみの一票によって決定される「デモクラシー」の時代であり、「数と凡庸」(ハイデガー)の支配する時代でもある。

「数と凡庸への否と諾」

 近代は人間を計量化すると、ハイデガーは言う。なるほど確かに、事態はそのように進行している。そればかりか、計量化されないものは悪であるという感覚さえもが広く行き渡ってしまっている。社会のあちこちに設置されている監視カメラは、計量化のイデオロギーの急先鋒であろう。すべてが可視化され、計量化されることで、社会は相対的な幸福と安定を手に入れることができる。しかし社会は栄光と悲惨という計量化しえぬものを失っている。栄光と悲惨は、いまや珍重すべき骨董品であると同時に、忌避すべき疫病のようなものとしてある。バプテスマのヨハネのような人物は、現在では、病院か刑務所に閉じ込められるしかないであろう。

 阿部弘一の作品は、凡庸な経済空間の窮屈さに放たれる火としてある。その炎の両義性をまるごと肯定することが凡庸さを逃れる術であるにちがいない。

 炎をめぐる音楽を2曲。ひとつは東京スカパラダイスオーケストラの「美しく燃える森」。ゲスト・ヴォーカルは奥田民生。ポップとシブさが非常にいいバランスで組み合わさった秀作である。もうひとつは、フリーの「ファイア・アンド・ウォーター」。こちらはシブさがまさっている。やはり1970年周辺のロックはいい。フリーはのちにバッド・カンパニーへと発展を遂げるが、フリーのほうが断然いい。


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