行旅死亡人が二人の記者を動かした物語
あふれる書籍や映像作品の中から、学びや気づきがほしい。そんな方のため、元県紙記者の木暮ライが、おすすめのコンテンツをプロット形式で紹介しています。
■現金3400万円を遺して孤独死した女性の謎/「ある行旅死亡人の物語」
2022年11月30日に出版されたノンフィクション作品です。共同通信社大阪社会部の武田惇志記者と伊藤亜衣記者による47NEWS2022年2月20日、21日配信の記事「現金3400万円を残して孤独死した身元不明の女性、一体誰なのか(前後編)」を書籍化したものでした。今回は、長めの紹介となります。理由はすべての謎が解けていないため、敢えて取材経緯をできる限り載せてみました。読んでいる方も自分なりの分析として役立てて頂ければ幸いです。
書籍化前に掲載されたネット記事
■起 はじまりはたった数行の死亡記事だった
2021年6月1日、武田記者は大阪、天神橋筋商店街の喫茶店にいた。
パソコン画面のブラウザの「お気に入り」に登録していたウェブサイト「行旅死亡人データベース」(https://kouryodb.net/)にアクセスしてみた。
ウェブサイトと表記するところが記者らしいと感じた。記者を経験していれば、必ずデスクにウェブサイトなのかアプリなのかつっこまれてしまうからだ。
武田記者は、これまで注意して見たことがなかった「ランキング」のページに目が留まった。
クリックすると「市町村別死亡人数ランキング」「市町村の人口に対するランキング」「所持金ランキング」が出てきた。
管報の掲載から一年経ってもニュースになっておらず既視感もあった。
ここであきらめないのが武田記者。試しに尼崎市南部保健福祉センターに問い合わせてみた。
記者にとって数字やお金をたくさん持っている点で記事になりやすいものである。
■承 「沖宗」 という印鑑
尼崎市役所に問い合わせると名前が判明した。
「タナカチヅコ」
市役所でも調べたが身元判明に至らず。
市は家庭裁判所に相続財産管理人を申し立てた。弁護士は2021年2月15日に選任され、弁護士歴22年の太田吉彦氏が財産管理を引き受けている。
武田記者の経験上、行政や企業を相手取った訴訟や無罪を争う刑事事件で権力の不正を世に広く訴えたり被害者の名誉を回復させたりといった弁護士側にマスコミを使って広報するメリットがない。
余談だが、木暮も取材した「和歌山カレー事件」の生田暉雄弁護士が代表例である。無罪を訴え、マスコミを巻き込んで再審を申してている。カレー事件関連の書籍も後日紹介する。
市の職員が弁護士方に取材申し込みがあった旨を伝えた。
相手からの連絡を待てと言われたら、遠回しに断られたようなもの。
あきらめかけていた矢先、太田弁護士から連絡が来る。即日、ZOOMで取材することになった。
《太田弁護士のZOOM取材でわかったこと》
太田弁護士は「タナカチヅコ氏」の身内を探すことが目的。親族が出てきたときに「これだけ調査した」と言える状態を作ること。
亡くなった方に対しては個人情報保護法や守秘義務は発生しないので報道できるなら報道してほしいとのこと。
タナカチヅコ氏は1982(昭和57)年から官報に出ていた「錦江荘(きんこうそう)に住んでいた。賃貸借契約書には「田中竜次(仮名)」が借り主として契約していた。「勤務先」が記載されていたが今はない。住民票がなく、田中竜次なる人物がいつ亡くなったのかも不明。
住民票に関しては、1995年に何らかの理由で「職権消除(しょっけんしょうじょ)されている。
93歳女性の大家の証言によれば、「何十年も前から一人暮らし」「竜次さんなんておらへんで」。ちなみに、契約時はこの女性の旦那さんが大家だった。
家賃は3万1500円(契約当時は月2万2千円)。
1994年4月、タナカチヅコ氏は製缶工場の労災事故で右手指全てを欠損。
病院の看護師のメモによれば、「自分は広島出身で3人姉妹」と話していたという。
治療した病院でカルテがあるが本籍地がわからないため死亡届が出せない。よって氏名不詳となり行旅死亡人の扱いとなった。
工場は1999年3月に廃業となり、更地となった。地主であった経営者も登記簿上の住所はなかった。
労災事実を知ったのは、病院に労災申請の書類が遺されていた。
ちなみに労災でも新聞記事が出るはずだ。後日、木暮が調べてみることにする。
部屋の片付けをすると「沖宗」という印鑑⇒広島に多い名字
携帯電話や電話帳がない。
プッシュ式のない電話機。生きている間は電話をかけたことがない。電話局によると、1500円の基本料金を払っていたという。
近所の買い物のレシートや領収書もない。
年賀状などの郵便物がない。
大阪の闇歯医者に通っていた。
保険診療を受けることができない理由とは?
警察は広島市役所へ赴き調べたが何もわからない。
結局、身元を特定できる物が一切なく事件性がないと判断した。警察も「こんなことがあるのか」と証言している。
身長に誤差がある。官報「133㌢」大家「150㌢」。
部屋の鍵が見つからないため、亡くなってから発見までの2週間、誰かが部屋に入った可能性も。
星型のペンダントに隠された謎の番号「141391 13487」。
木暮の予想では金庫の暗証番号では?
ロケットペンダントには、紙と1000ウォン。
太田弁護士は、田中が北朝鮮の工作員と推理。
スパイに送金して生計を立てていたと推測した。
田中竜次と思われる人物とタナカチヅコ氏の写真、少年と少女の写真が見つかる。
《2021年6月4日、改めて太田弁護士と直接会う。》
遺留品は、うち20万6千円を葬祭費に、1万4830円を官報広告掲載料へ充当し、さらに4230円を相続財産管理人選任に伴う官報広告費に充当した。田中千津子名義の銀行通帳2冊、キャッシュカード、年金手帳一冊。
ゆうちょ銀行の残高は2008年7月時点で500万円あったが、2015年6月にはたった202円だった。いったい何に使ったのか?
金庫は古い札を輪ゴムで留めた3460万0520円の現金とネックレスなどの宝石類。
なぜか宝石類だけ所在不明となる。
遺体の女性は年金手帳によると「田中千津子」75歳。
死因はくも膜下出血。在宅時に倒れ、そのまま玄関先で絶命したとみられる。遺体発見時は近所の住民が郵便物が溜まっていたのを不審に思い、遺体発見に至った。ここで木暮が気づいたのが、そのときの郵便物はないのか?
田中竜次については、賃貸借契約書に勤務先が記されていた。
「富士化学紙工業」⇒「フジコピアン」
警察がこの会社に同目の社員がいたか確認したが、その事実は確認されず。
虚偽の可能性も。
2021年3月、探偵が約一カ月間の聞き込み調査。
大家によると、田中氏の買い物ルート。市場は南東方向なのに、いつも北東から帰ってきた
北東に何があるのか?
商店街で生前写真を75歳時の合成で聞きまわる。しかし、行きつけや顔なじみの店に該当なし。
千津子さんが勤めていたとされる製缶工場の経営者は10年前に死去。妻は認知症で一人娘が引き取っているという。
尼崎駅周辺でレシートの眼鏡店や電気屋を探したが、手がかりは見つからず。
武田記者は太田弁護士の情報をもとに、本格調査に入る。
転 千津子は私の叔母でした
①②の結果
尼崎駅周辺の眼鏡店を探ると、製缶工場の経営者に息子が二人いることを知る。近所に息子の同級生もいた。
経営者一家を探して歩き続けると偶然にも路上で娘さんに遭遇。
③の結果
五十代前半の世代をターゲットにFacebookで富士化学紙工業の元社員と連絡を取った。元社員は総合職で出世コースを歩んだ人物。様々な部署に精通していると期待したが、田中竜次については知らなかった。
賃貸借契約書に記載された番号は、同社の大阪本社の番号だった。
元社員によると、同社では対外的に自らの勤務先を連絡先として記す際、自分の担当部署の直通番号を記すのが普通だったという。携帯のない時代では、直通電話が普通らしい。
田中竜次が在籍していないとすれば、電話帳などのオープンソースから富士化学紙工業の電話番号を調べ、賃貸借契約書に書き込んだ可能性がある。
しかし、なぜ田中竜次本人は住まず、千津子さんに住まわせたのか?
田中竜次の写真を精査すると、1992年7月12日に撮影された旅館が富山県南砺市の「大牧温泉」とわかる。宿帳を調べると、1992年7月11日から12日の宿泊客二件が判明した。一件は、「七夕会」というグループと電話番号、旅行会社、17人のカラオケ同好会のようだった。過去記事によれば、実在する団体で、宿泊の四か月後に香川県高松市でバス事故に巻き込まれている。12日の宿泊者は二泊し、「京都 島田(仮名)2名」と電話番号のみだった。この番号はワコールグループの企業の部署だった。しかし、田中竜次にはたどり着けなかった。
④の結果
a.愛車の三菱ギャランGTO-MII
b.ベビーベッドに残されていたサンアローのぬいぐるみ「サンディー」
c.2人の子ども
この3つのうち、後日子どもの写真に進展があった。
⑤の結果
沖宗ルーツを探るサイトのブログ主「沖宗生郎(おきむねいくろう)氏」に取材。広島でも三文判はなかなか売っていない。ハンコは間違いなく本人のものだろう。
ブログ主の協力で16人に絞った。その中から広島市議会議員の沖宗正明氏にたどり着く。正明氏は2019年7月の参院選広島選挙区の大規模買収事件で河井克行元法相(58)=実刑確定=から現金50万円を受け取ったものの不起訴処分となった人物。2022年2月4日に辞職している。
実は、沖宗正明氏の母・照子氏は千津子さんの妹だったのだ。
そして④の2人の子どもの写真は、千津子さんの甥と姪、つまり正明氏の兄弟と判明する。
千津子さんが広島を出るまでの1950年代まで専売公社広島工場で働いていたとわかる。専売公社はかつて存在した国によるたばこと塩の専売事業体で日本たばこ産業(JT)に引き継がれている。広島市宇品地区生まれであることから被爆者した労働者から絞り、過去記事を調べた。すると、OBの関係者を見つけた。そしてOB会を世話している丹羽和光さんを紹介してもらう。専売公社を辞めたタイミングは曖昧なままだった。もう一つの手がかりとして広島県内の図書館の司書から朗報が届く。東京の「たばこと塩の博物館」で保管されている名簿を入手する。そこには、照子さんと千津子さんの名前があった。
人間の生きた痕跡は必ずどこかに残る。たとえ名もなきの人であっても。
千津子さんの同級生川岡シマヱさんによると、原爆投下時、千津子さんは川岡さんとともに小用に疎化していた。
正明氏によると、「オケダ」なる男性が千津子さんを探しに来た過去があったそうだ。
関西に越してからある時期を境に、姉の照子さんと連絡が途絶えた。
千津子さんが大阪から尼崎に至るまで、何かがあった可能性が高い。
しかし、ここで大どんでん返し!
今回の取材で判明したことを受け、兵庫県警はDNA鑑定を実施した。結果、沖宗4姉妹の三女アキコ(仮名)との血縁関係を調べてみると『同胞でない=同じ母から生まれた子ではない』ことがわかったのだ。
次に、呉市川尻町小用に向かう。80歳を超えたアキコさんによると、別嬪(べっぴん)で社交性のある人だったという。晩年の千津子さんとはかけ離れた印象だ。アキコさんの姉は4姉妹の二番目の女性と説明しても「3姉妹」と言い張る。アキコさんは4姉妹という認識だった。千津子さんも病院の看護婦に3姉妹と話している。ますます謎だ。アキコさんは千津子さんから大阪のナショナルで就職したと聞いている。
結 残された謎
身元は判明したが、約3400万円の現金と星型ペンダントの数字の謎は残されたままである。
田中竜次の存在と足取りも不明のままだ。尼崎のアパートに田中竜次本人は住まず、千津子さんに住まわせたのか?1995年に何らかの理由で「職権消除(しょっけんしょうじょ)されている住民票も謎のまま。
金庫にあった宝石類だけ所在すらわからない。
しかし、千津子さんは名前と半生を取り戻すことができた。
これは、2人の記者を見守った真下周デスクが言うように、2人の一人の死者の人生を丁寧に追う姿が実った結果である。現役記者の取材方法を知ることことができるのも、本書の醍醐味だ。
ネット記事の声からは「本人は明らかになることをいなかったのではないか」との批判もあったが、どんな事情があるにせよ、千津子さんは故郷に帰ってくることができた。二人の記者がいなければ帰ることはできなかった。それだけでも成仏できる気がします。おつかれさまでした。
引き続き、残された謎も解いてほしい。木暮もできる限り調査してみよう。
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