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「北欧の街角」をテクストとして読む

本稿は、北欧の街角でさんに宛てた私信です。
 
前回、りなるさんの記事から、りなるという人物を象ることを試みました。

今回はそれとは真逆のことをします。
 
北欧の街角で(以下「北欧氏」)の記事を作者である北欧氏から切り離し、独立した “テクスト” として読む。
作者の意図や思い、北欧氏の属性やバックグラウンドなどを一切考慮せず、作品そのものを純粋に読んで、「私はこう読みました」をレポートします。
 
北欧氏は、旅行記やインテリア、不動産売買に関する記事なども書いておられますが、本稿では “追憶系” のエピソードを取り上げさせていただきました。
「私は note において小説は書いておりません」
と北欧氏はおっしゃっています。すべて実話に基づいてるからでしょう。
しかし、わたくし小説というジャンルもあるくらいなので、それらのエピソードは “小説” と称していいものだと思います。
それをノンフィクションと呼ぶにはあまりに行間が豊かで雄弁だからです。
 
以下のレポートでは、作中の一人称を「私」と表記しますが、それは北欧氏とは無関係の人物だとお考えください。
前回と同様、初見の方にもわかるようには書いていません。原典テクストのリンクを貼りますので、そちらもお読みいただければ幸いです。


タイトルにもあるとおり、この物語のキーワードは「節目」で、「そんなものに意味などない」というのが主題である。
3.11 の震災で愛娘を失った主人公・本庄にとって、時間の経過は何も解決してくれない。命日も、~回忌といった法事も、他人の観点であって、当事者にとっては永遠に時が止まったままなのだ。
 
本庄と「私」の関係性はどのようなものだったか。
本庄は、「私」の父親に大恩がある人だろう。何度も助けてもらったか、生きることの意味を教えてもらったか。その娘である「私」は、本庄にとって慈愛の対象である。作中に 2度登場する「脚が長い」描写は、本庄が「私」の “あしながおじさん” 的存在だったことを暗示するものか。
「私」の実父が早世してから、本庄は父代わりだったのではないだろうか。
 
この物語には、おもての主題とは別に、裏の主題がある。
それは、「夫婦ってなんだろう?」という問いかけだ。
夫婦関係が壊れて久しい本庄。
壊れて月日の浅い「私」。
40を過ぎてなお初々しい群馬の夫婦。
そんな夢など描いたこともない 40前のホステス。
 
華やかな女を好み、地味な妻をもち、情熱型の脆い女と不倫している本庄を「私」は理解しつつある。
10年前、本庄を責めた「私」は、当時の若さに微苦笑している。
場末のパブ、荒廃した商店街と、雨晴海岸の照り返す陽光を追憶しながら、時の流れとともに変わる風景と変わらない風景を思い、男と女の無常を感じているのであろう。


この物語の表の主題は、「サイコパス男にご用心あれ」といったところか。
 
ミカエルは、ほぼすべての同僚から煙たがられる存在だろう。
精神的疾患かどうかはさておき、人として致命的欠陥があることは疑いようがない。
明晰な頭脳も、紳士的な所作も、アラン・ドロン似の容貌も、彼の気味悪さを引き立たせる要素になっている。
共感力の欠如と、他人の自尊心を奪う言動は、この世で最も厄介な性質かもしれない。
超人的なプログラマーであることが、それらを補えるとも思えない。
 
これだけでも極上に面白い本作であるが、そこにはさらに隠れたテーマがある。本作の裏の主題は、「文明人の倒錯」である。
ミカエルは、ある種の英才教育を受けてきた。学芸とPE(体育)に特化したイビツな教育だ。私はそこに、スウェーデンという高度な文明社会の宿痾をみる。
 
学問・アート・スポーツと言えば、バランスがとれているように聞こえる。しかし、そこには心の教育が抜けている。
「道端に座っているホームレスの人達を助ける」のは、慈悲の心からではなく、文明人の ”嗜み” としてやっている可能性が高い。
 
そういう環境で育った人間は、文明社会の ”型” から外れるものを許さない。それを象徴しているのが、娘の身体の動きを矯正している場面だ。
 
さて、ハイヒールで躓いた「私」の上体を、ミカエルが咄嗟に支えたのは、人として残っている本能的優しさか、それとも紳士の嗜みか。
それが本作の最大の問いである。


この物語の主題は「追憶」。即ち、追憶そのものがテーマであって、数ある "追憶もの" の中でも、追憶 of 追憶s と呼ぶべきものである。
 
人間の記憶とは、規則性も合理性もないものだ。
しかし、なぜか定期的に脳裏をよぎる遠い記憶というものがある。そこにはたいてい記憶と結びついた人がいる。
そんな人にふと連絡をとりたくなるのは、あの日あの場所で自分が生きていたことの証しを確認するためであろう。
 
興味深いのは裏の主題だ。それは、ずばり「同性に初恋した記憶」である。
5歳のときアルジェリアで約束した少年はもうこの世にいない、としみじみ述懐したのは、初恋の人は亜依子だ、と無意識に認めた瞬間であった。
 
亜依子が「私」の初恋の相手だったなら、今ごろ「連絡をとりたい」と思うことの意味合いも違ってくる。
「私」は、亜依子に電話を掛け、社交的に差し支えない世間話をしたところで言う。
「あなたのことが好きでした」
受話器の向こうで、亜依子は穏やかに微笑んでいる。
「私も貴方のことが好きだったのよ」
という言葉を「私」は待っている。
 
そんな夢を、「私」は幾度となく見たのではないだろうか。
「私」が同性愛者かどうかなぞ問題ではない。ただ、8歳の少女が初めて恋した相手が男でも女でもいいじゃないか、と私は思う。


「名前とはアイデンティティそのものである」ことを思わせてくれる物語。
2つの認識票を首に掛けている青年トム(あるいはダビッド)は、2つの名前=アイデンティティとともに、2人分の人生を生きていくつもりだと言う。
 
Saeko という偽名を名乗った「私」はもう「私」ではない。
真鍮の表札を見て「私」に戻ったとき、Saeko という別の人格を演じたことを少し後悔したのではないか。陽子という少女が親からもらったその名前を捨てたことを思い出して、自分に弁明しているようにも感じられる。
 
裏テーマについては、ヒントが散りばめられている。
トムはなぜ日本が大好きなのか?
なぜ胸元に旭日旗の刺青を彫っているのか?
なぜ死んだ幼馴染の認識票を首に掛けているのか?
 
旭日旗は軍旗であり、かつての大日本帝国海軍が軍艦旗として掲げていた。大日本帝国海軍は、日露戦争の最大の海戦でバルチック艦隊を破った。
中立国になる前のスウェーデンが、最後に戦って負けた相手は露国であり、スウェーデンの敗北を決定づけたのが、この “バルト海の艦隊” であった。
 
“Japan is number one” の意味するところも明白であろう。


この物語には複数のテーマが見事に絡み合っているが、真ん中に据えるべき主題は「正義」である、と私は考えた。
「友達を助けるのは当然のことでしょ」という、人として最も大切な正義をラウラは教えてくれるからである。
主題を「正義」と捉えるなら、これは重い話でも暗い話でもない。むしろ、勇気を与えられる話だ。
 
一方、裏テーマは「母親の狂気」だと感じた。
最も治療が必要なのは、エルビラでもディアナでもなく、ディアナの母ではないのか。
その光景を見て半狂乱になったのは仕方がないし気の毒だと思うが、危うく ICU 送りになるほどラウラの顔面を何度も殴り続けたのは、正気の沙汰ではない。
それとは対照的に描かれているのがラウラの母である。
いかなる状況に遭遇しても、強靭な理性を保っている。
理性もまたひとつの狂気と言えるのではないだろうか。
 
あの冬の事件で、エルビラとディアナが心理治療施設に入ったのは、非合法酒を飲んだからではなく、ディアナの母親に無茶苦茶に殴打されるラウラを見てしまったからだろう。
なぜ、ラウラだけは正気を保っていられるのか。
ラウラの母にヒントがあるように思う。ラウラの母は、人としての正しい道を知る人だ。娘を深いところで信じ、体を張って支える強さもある。
ラウラは、母親から理性以外のすべてを受け継いでいる。
 
「弱い人達を助けるのは当たり前のことでしょう」
ラウラの声が聞こえてきた。


この物語は、「偶然の積み重なりが運んでくるドラマ」である。
 
娘たちから大切な手紙を託された。
昼食が遅くなった。そのとき社員食堂にその青年がいた。
彼が席を立つ直前で、共通する未踏の国の話題に到達した。
顔が 4代目ジェームズ・ボンドに似ていた。
そして、その週が彼の病状悪化前の唯一のタイミングだった。
 
それらの一つひとつが偶然のハプニングであり、そのうちのどれか一つでも欠けたら、リスボン旅行は発生していなかった。
 
裏テーマは、「旅=人生。旅の連れ=人生の伴侶」というメタファーだ。
このリスボン旅行を人生、同行した青年を人生の伴侶に読み替えて、象徴的なシーンを振り返ってみる。
 
>私とは基本的に観光スタイルが異なる、とは感じた
>初めて、些細なことで口喧嘩をした
>「僕はポンコツなんだ、期待させたのならごめん」
>この青年とは、再度一緒に旅行をする機会もあるのではないか
>将来的に、他の誰かと一緒にリスボンを旅行したならば、「一期一会」の言葉とともに彼のことを思い出すであろう
 
そして、最も意味深長なのはこれだろう。
>所詮は単なるゆきずりの旅の連れというだけの関係であった
 
人生の伴侶とは所詮、単なるゆきずりの連れ合いに過ぎないのやもしれぬ。


「青い男女の朴訥さを愛おしむ」物語として最初は読んだ。
 
河村少年は、淡い期待とともに「私」の部屋を訪問したのだと思う。
しかし、「私」との会話が始まると、それどころではなくなった。
「私」のペースに巻き込まれるしかなかった。
持参した緑色の瓜を沈黙しながら貪るのが精一杯だった。
 
>「今晩は有難う」
それは、訪問の目的を変容させてくれたことへのお礼だったのだろう。
 
裏テーマとして、この物語は世代論にもなっている。
ここには 3つの世代が登場する。
1. 10代で軍国教育を叩き込まれた世代
2. 戦後生まれのいわゆる団塊世代
3. その子の世代である第二次ベビーブーマー
 
1 の世代は、朝の食堂で軍歌を大合唱していた年配男性集団。
徴兵され、満州を実地体験した。骨の髄まで染み込んだ軍国的愛国の価値観は死ぬまで変わらない。
 
2 の世代は、朝食の丸テーブルで同席した河村少年の父親。
学生時代に左翼運動に熱中したが、卒業後は何もかも忘れたように転向し、企業戦士として高度経済成長を支えた。背中に聞こえる軍歌を最も複雑な心境で聞いていたのは彼だ。
 
3 の世代は河村少年と「私」である。
歴史の知識としての戦争観をもつ、本来ニュートラルであるはずの世代。
父親に連れられて旅行している河村少年は、知識を体感に変えるために自らここに来た「私」に対して、劣等感を味わったことだろう。
河村少年のその後を想像してみる。
彼は、彼が所属する組織の教育と立場とによって、「私」の望まない方向に行ったのではないか。
それでも、あのときあの部屋で 18歳の少女と語り合った記憶は、いつまでも河村少年の心の奥に畳んであると思うのだ。


最後は、「私」が恋愛観と死生観を重ねながら自問自答する物語である。
 
別離を受け入れているふたりが最後に過ごす晩は、『愛と哀しみの果て』でメリル・ストリープとロバート・レッドフォードがワルツを踊るあのシーンを髣髴させた。
または、この物語を表す文句は「さよならだけが人生だ」であろうか。
 
追憶の中で「何故」を問う「私」とともに、私も考えたくなった。
 
>そもそも何故、パイロットだったのか
乗客乗員にとってパイロットとは、命を預ける人である。
また、パイロットという言葉は、コックピットで飛行機を操縦する人、という以外に、人生の水先案内人のような意味合いもある。
「私」のパイロットとは、自分の生命と人生を預けられる人、だったのではないか。
 
>何故、期限内に結婚に踏み切れなかったのか
価値観・経済観念・趣味の違い。と「私」は説明しつつも、その答えを否定してもいる。
本質的な問いは、次の「何故」である。
 
>四年半一緒に居て、何故、私達の間に家族愛は生まれなかったのか
これには 2つの答えがあると考えた。
1つは子供の存在だ。男女間の愛は、子供をもつことで、より強く深く長い家族愛に発展する。「私」に子供がいたとすると、ボーがその子を自分の子のように慈しむことがなければ、家族愛など生まれない。
もう 1つは、子がいない夫婦の家族愛のことである。子のいない夫婦を何組か知っているが、彼らに共通するのは、楽しい時間だけでなく苦しい時間を共有したことだ。辛酸を嘗めるような経験を、結婚前あるいは結婚後にしている。そこで結ばれた絆は死ぬまで断ち切れない、と信じることができるのだろう。
 
パイロットにヒントがあった。残りの人生(子供のことも含めて)すべてを預けることができない、と「私」は判断したのだと思う。


北欧の街角さんへ
 
あなたが書く物語に魅了される読者の一人として、このレポートを贈らせてください。
あなたの追憶に見えてくるものは、人に対するやさしい眼差しです。
その眼差しは、その時間を生きていたあなた自身へも向けられているように感じます。
人間の美しさを綴りたいと願うあなたこそ最も美しい人なのだと思います。
 
世界の普通から

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