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戦跡巡礼 連合赤軍・あさま山荘への道を辿る 2

小袖ベース跡を後にした一行。
車に乗り、減ってきたガソリンを入れてから小菅村の道の駅で食事。
食事の跡、次は大菩薩峠を目指す。正確には、大菩薩峠の登山道の途中にある山小屋「福ちゃん荘」が目的地で、今夜の宿である。
「宿のおばさんによると、もう雪が積もっているそうだ」
元闘士が教えてくれた。
僕の車はスタッドレスを履いているし、もう一台のミニバンはチェーンを携行している。が、僕も雪道走行は慣れているわけではない。二回ほど、大雪警報が出ている青森でレンタカーを運転したことがあるが、そのときは何度か死を覚悟した。つまり雪道はトラウマであり、この日もうっすらとした不安を抱えていた。

奥多摩、小菅、丹波山から大菩薩へ行くには、国道411号(大菩薩ライン)が便利だが、数日前の大雨のため、途中で通行止めになっているそうだ。そのため、いちど大月に出て、甲斐大和から県道を上日川ダム方面へ登経路をとるしかない。小菅から大月へは松姫トンネルの開通で便利になっている。

県道を大菩薩に向けてえっちらと登り、山が深くなるにつれて道の脇に積雪が見られるようになる。駐車可能なスペースでミニバンにチェーンを装着して、どんどん登る。やがて雪は道全体に広がってきた。大雪というほどではないが、確実に路面は凍り付いているだろう。誰かが後続のミニバンに電話して、「ゆっくり走るように、車間を十分に空けるように。オカマ掘らないでね」と伝える。
「あ、鹿だ!」
目の前に、鹿の群れが走り出た。大きな鹿と、仔鹿らしい小さい鹿。四頭いた。
「鹿の家族かな」
みんな歓声を上げる。鹿は道路を横断して山の斜面に消えていった。

やがて、大菩薩嶺への登山道となる未舗装の道に折れ、ちょっと登ると「福ちゃん荘」。

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福ちゃん荘は、日本の新左翼運動史の中で一つの転機になった場所だ。

1969年11月5日早朝、福ちゃん荘に集結していた赤軍派53名が一斉に検挙された。彼らは首相官邸占拠を計画し、福ちゃん荘を拠点として付近山中で「軍事訓練」を行っていた。「軍事訓練」と書けば物々しいが、実態はそうでもなく、手製の爆弾は用意されていたが、銃器は無い。集まっているメンバーも学生運動の延長で、プロの軍人(元自衛官や旧軍、傭兵経験者など)が指導したわけでもない。ゲバ棒にヘルメットが手製爆弾と刃物になり、攻撃目標が政府中枢になり、「敵の殺傷」が目的になったが、その実力が伴っているたとは思えない。だから早朝の急襲で一網打尽になった。見張りを立てることもなく全員が眠りこけていたし、パジャマに着替えて寝ぼけ眼で捕まった者もいたという。そもそも、この軍事訓練の計画は外部に漏れていて、福ちゃん荘には逮捕の瞬間のスクープを狙い記者が潜入していたそうだ。

この逮捕劇で赤軍派は壊滅に近い状態に陥り、国内での活動は警察によって徹底してマークされることになる。そこで海外に活路を求める者(よど号グループ、アラブ渡航→日本赤軍)、国内で地下化する者(連合赤軍)とが出現。

そんな歴史のある「福ちゃん荘」は、大菩薩登山の宿泊だけでなく、日本現代史のファンにとっても、さながら聖地として知られている。

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宿の中には「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を監督した若松孝二のポスターも張られているし、事件当時の雑誌や新聞記事も展示されている。

ただし、宿は事件の後に建て替えられているので、当時の佇まいではない。玄関の看板は、当時のものだそうだ。

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食堂は昼間の営業もしているので、日帰り客の利用も可能。


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