「みんな」の暴走がスターリン主義になる

小山田圭吾の件はまだまだほじくり返すつもりだ。といっても小山田圭吾に対する個人攻撃は、もはや意味が乏しい。個人攻撃ではなく、小山田圭吾(とその取り巻き)が世にはばかることを許容するものの正体を暴くべきだ。

僕は小山田圭吾の出身の私学が掲げる理想と実態との歪みを、僕自身が見たまま書いてきた。もし僕が見た当時の状況が小山田圭吾在学時も同様であるならば、彼らの犯行が見逃されるというか、むしろ助長される環境だったというのが正直な感想だ。

それから当該私学の問題対処の仕方にも大いに問題があると提起した。それは、クラス内でのイザコザが「生徒間の話し合い」で解決が図られていることだ。軽微なイザコザであればもちろん生徒間で話し合い解決すれば良いだろうが、いじめ、特に合理的配慮がなされるべき障がい者に対するいじめ、まして小山田圭吾らの行ったレベルの暴力、僕が目撃した「殴る蹴る、レーザーポインターの目への照射、刃物による脅迫、継続した仲間はずれ」等は生徒間で解決させられるものでなく、即座に教員が介入して止めさせなければならないものだ。現に生徒の心身に対する暴力であり、被害者は生存権が侵害されているのだから。

僕は不思議だった。なぜ二言目には「憲法、憲法」「憲法を守れ」と熱に浮かされたようにこの学校の大人たちは唱えるのに、その憲法で保証されているはずの生存権が、一部の生徒には完全に保証されていないのか、と。そしてその違憲状態を大人たちが許容しているのかと。大人たちが守りたいのは9条だけなのだろうか?僕はそう感じていた。

その疑問をモヤモヤと抱き続けていたが、今思うに、あのW学園の民主主義とはいじめと学級会吊し上げによる恐怖支配、つまりソ連の粛清のごときスターリニズムだったのだろう。クラスの異質なものを秘密警察のような摘発癖のある生徒によって炙り出し、人民裁判で「みんなと協調しないお前が悪いからだ」と吊し上げて黙らせる。そして異質なものは「無かったこと」になる。そうして維持していた偽りの民主主義と理想郷のような「共に生きる」学校。それが本質だったのだと思わずにいられない。

そう考えると、学校としては自分たちの理想に合致しない者をいじめを利用して痛めつけ、ホームルームの吊し上げによって排除していた、つまり学校ぐるみでいじめを利用して、理想郷のような学校の体裁を維持していたのではないか…という想像に至る。

なんとも遣る瀬無い想像だが、学校にとって「扱いにくい障がい者」は、学園の理想「みんな仲良く勉強も行事も問題なくこなせる」に合致しない、異物だったのではないだろうか。その異物を学校が受けいれた以上はやめさせるわけに行かないから、いじめという年頃の少年たちの間では自然現象とも言える事象を消極的に利用することで引導を渡そうとした。

これは、考えすぎだろうか。僕の妄想かもしれない。だが、偏ったイデオロギーを中心に据えた集団は往々にして恐怖支配に陥る。そこに「異物」の居場所はない。異物と見なされたものは暴力的に再教育されるか、排除されるのみ。そういう国は歴史上いくらでもあったし、今もあるだろう。日本だって今は言論の自由が保証されているかのように見えるが、為政者が「オリンピックに反対するものは反日」と公然と発言する今、恐怖支配への道を1歩1歩進んでいるのではないか。

どんなに革新的で先駆的な理想を掲げていても、そこは日本に立地している以上は、日本的な組織風土が形成されるだろう。ここで僕は連合赤軍の実例を思い出す。次回以降、連合赤軍のメンバーだった植垣康博さんの事件総括を見ながら「みんな」の暴走を考えてみたい。





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