安倍元首相国葬への抵抗 「写真射的」を断固支持する

9月27日、安倍元首相の国葬が行われた。

国民の多くの反対、しかも安倍元首相が総裁を務めていた自民党内部からも慎重論が出ていた国葬である。

多くの識者が論じているように、現行の法律では、国葬は規定されていない。国葬法は戦後、廃止されている。
法的根拠の無いことに税金を投入するなんて許されるわけがない。国の仕事は、トップから末端の公務員に至るまで法に従って法の手続きを踏んで仕事をするのである。それが法治国家の行政だ。もし公務員や政治家の個人的な趣味が行政に好き放題に反映されるのであれば、どんな混乱が起こるのかは論じるまでもない。漫画の「こち亀」の両さんが巻き起こすパニックが現実化するということだ。両さんは漫画の世界の人物だから、警察官として法に則った仕事をする必要は無く、個人的趣味で税金を使おうが交番を破壊しようが拳銃をぶっ放そうが面白ければOKなんだが、現実の行政がそれをやったら国民はたまらない。

もし内閣府設置法規定の国の儀式として行うのであれば、国民の総意としての賛同が必要だ。それが民主主義というものだ。つまり議会の承認くらいは、たとえ形式ばかりだとしても取り付けるのが筋だろう。
それすら無く、事実上与党政治家の勝手な決定により国葬は強行された。これはアベシの追悼を国民に強要したということである。

アベシは首相経験者としては戦後例のない衝撃的な死に方をしたのは確かだろうが、それでも元首相であり現在は一議員である。そして戦後最長の首相在任中の功罪は、十分な総括がなされていない。問題視されているモリ・カケ・サクラも曖昧なままだ。

私はアベシの「功」の部分を無視するつもりはない。ロシア、インドとの外交を重視し、非米外交でそれなりの功績はあっただろう。数少ない「功」は、8年も首相をやってればそれなりにあるだろう。

しかし、それ以上に「罪」が見逃せないほど多い。アベシの推進した新自由主義的・グローバリズム的な政策により格差は拡大し、竹中平蔵のごとき中間搾取をことにする人物を重用することで「今だけ金だけ自分だけ」と呼ばれる刹那的で浮薄な経済構造が台頭し、産業を破壊した。アベシ執権のこの数年で、きわめて恣意的な人材登用が横行し、いわゆる「アベトモ」によって日本は支配された。そのアベトモの正体とは政商と統一教会であることが、アベシ銃殺によって暴かれた。

この国葬と追悼攻撃はアベシの恣意的なお友達執権の集大成だ。
この国の劣化の見本市だ。
政権に都合の良い人間が一代貴族に登用されて便宜を与えられ、自衛隊の司令部にも自由に出入りする時代である。何の思慮もなく思い込みと偏見と自己顕示欲の赴くままに言いたい放題する、その言動が政権に都合がよければ持ち上げられ政治、行政、司法までも左右する。そんな時代に私たちは生きている。この数年、恐ろしい勢いで日本は劣化していると思わないだろうか。

9月27日、私は統一教会の黒ミサ=アベシ国葬に反対するデモに参加した。
お茶の水から武道館近くの規制線へのデモ行進、その後に国会前での総がかり行動に参加。
一部マスコミからは老人ばかりが反対していると揶揄する声があったが、実際には若者の参加も目に付いた。
僕はいくつかの若者グループに声をかけてみた。どちらも遠方からの参加であり、政治的セクトや組織としての参加ではなく、志を同じくする個人の緩やかな連帯だという。

うち一つのグループはアベシの写真を的にした射的屋台を開いていたことで、ネット上ではちょっとした話題になっていた。

これらの報道を、どう思うだろうか。
また故人を的にした射的について、どう思うだろうか。

彼らは国会前の行動会場でも射的屋台を開いていた。ちょうど私が通りかかったとき、国葬反対のプラカードを持った女性が「これはやり過ぎ」と苦言を呈しているところだった。

多くの人の感性では、故人を射的の的にするのは眉をひそめざるを得ない行為であろう。
その感覚はわかる。

だが、敢えて私はこの射的を支持すると表明したい。

倫理観とはなんだろうか。辞書を紐解けば「人として守る道」と出てくる。では人として守る道とは何なのか。
アベシは、自民党は、彼らが激推し又は黙認した統一教会は、人としての道を守ったと言えるのか。

民主主義社会に生きる私たちには、抵抗権がある。
公権力としての安倍政権はモリ・カケ・サクラに代表されるやりたい放題のインチキを行い、118回もの虚偽答弁をし、日本におけるグローバリズム支配を強化して国民の格差は拡大し、一握りの勝ち組が弱者を自己責任だと踏みつけ跋扈する、荒廃した社会を齎した。極めつけは統一教会の浸透を反共無罪とばかりに黙認・利用し、得体のしれない教義による(保守派の言う)伝統・文化の換骨奪胎。二言目には家庭、家族と強調するが、その家庭を崩壊に導くこと数知れず。
普通の国ならば人民の抵抗権行使としてクーデターが起きるであろう。国民が暴動を起こすだろう。
アベシ銃殺は、起こるべくして起きたのである。
社会通念に従えば、暴力に訴えたのは良くないしアベシの冥福を祈るということになるが、その良き社会通念や習俗をもぶっ壊したのがアベの好き放題な長期政権、自民党、統一教会ではないか。そっちがその気なら国民がだまーって大人しく従う義理はない。権力の延命のためのご都合主義的な倫理観の押し付けなどクソくらえである。

私は権力が押し付ける倫理観なぞ、こちらから破壊すべきだと考える。
倫理観は権力が押し付けるものではない、人民の長い歴史の中で自然に育てられたものだ。人民が互いを尊重し、慈しみ合い、良き社会を次世代につなげていくための神聖なる価値観だ。一握りの欲深い豚どもが富と権力と豚小屋を独占するための道具ではない。そんな汚い強欲な道具として恣意的に濫発されるエセ倫理観なぞ、見つけるごとに破壊すべきである。

今回の射的屋台は、見事にエセ倫理観をぶち壊した。あくまで平和的に。むしろ権力は彼らに感謝して表彰しても良いだろう。

厳然たる現実として、世の中は強いものがルールメーカーとなる。武力でも金でも宗教的カリスマ性でも、持つものが持たざる者を支配するのが冷たい現実だ。そして支配する者は道徳や倫理、伝統や文化までも手中に収める。私は、それが悪いとは思わない。ただし強いものには責務がある。富の再分配だ。それを怠るのであれば、持たざる者は泣き寝入りするか、立ち上がるかの二択だ。そして日本人は時の権力者を超越する伝統と文化を持つと信じている。その伝統と文化にこそ従順に生きるべきである。我ら人民の伝統と文化を破壊する権力が現れたときは、敢然と戦うべきである。敵が勝手に決めたルールを守っている限りは、敵の掌の中から一歩も出ることは出来ない。





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