"origin"、若しくはessei"ささつ"

"キミ"、と言われると軽く殺意が湧くけれど、"アナタ"はどこか耳心地良い。
「慇懃でなく」という注釈付きだが、"慇懃"という振り幅込みでも、『貴方』を使いこなせるヒトは、好ましく思う。

試論なので、笹舟が大海に出でるように、ゆらりゆらりと振幅しながら、時にぐるぐる廻りながら、綴っていく。

人を好きになる。するとdetailに目がいくようになる。"目に付いてしまう"、が主観としては『正しい』のだろう。つまり、後ろに長い白髪が一本ある、とか、俯いて字面を追ってると二重顎になる、とか、そうした"色気"からimageするものとは程遠い、『日常』を慈しむようになる。

こう感覚するようになったのは最近で、高校生の頃などは、むしろ逆だったよう記憶している。つまり、何とも思わない人には分析的に見やり、意識してるであろう人には、靄がかかるveilの、その向こうに相手を見やっているような感じだった。熱から覚めると靄は晴れ、あからさまが露出する。このふたつのどちらが『正しい』のか、或いはどちらも"間違っている"のか、わからない。多分、どちらも"正しい"のだ。"疲れ"を充実と錯誤する。"疲れ"を疲労と認識する。時の流れに寄り添うように、成熟と諦めが横たわる。

"慈しむ日常"と、"只の日常"。
「"只の日常"なんて無い。いつだって世界は素晴らしい」と言いたいのは、まあ言いたい。でもそれは寧ろ、「日常」をどこかで馬鹿にしている。この世には『素晴らしい世界』ではなく、"只の日常"と、"慈しむ日常"と、"それ以外"があるだけだ。そしてここには("それ以外"を除けば)、"キミ"と"アナタ"の、差異が露出している。"慈しむ日常"界隈で、おおよそ『君』を使わない。いつだって『あなた』onlyだ。だが、ふと思う。わたしは果たして誰かに向かい、『君』と呼んだことがあるだろうか。"只の日常"においてはきっと、『君』を使うのが許される。でも、それが使われる関係を、場面を、余りに知らない。馴染みの無さが遥かに遠い。余程"召使い"くらいにしか、言わないのではないか。つまり対象を「召使い」同等と見做しているとき、截然と『君』は使われる。

会社役員が受付の「女の子」に、"キミ"を使う。
接待を伴う飲食店で、脇に付いてくれる「女の子」に、"キミ"を使う。
お客様が従業員に、"キミ"を使う。
正社員が派遣社員に、"キミ"を使う。

ここには"格差"ではなく『階級』がある。隷属が横たわる。だが、この『隷属』はrole-playingであり、一過性のものにすぎない。とりあえず"制度上"は。だからraberからjobと言われるようになり、立憲下で"職業選択の自由"が保障される。無論、天皇陛下は自ら拘束具を嵌めている。liberalism陣営に在るとは、そういうことだ。

宝塚の『男役』が"娘役"に、"キミ"と"アナタ"を使い分ける。「娘役」とは即ち"観客"を代表するもの。タカラヅカは演劇的な性の"game"、つまり承認と選抜で成り立っている。キミとアナタの落差がとてもわかりやすい。わたしはこの世から、"キミ"を取り上げたいわけじゃない。そもそもそんなのは不可能だし、キミ/アナタの二項図式は、言い方を替えれば、匿名/顕名の落差である。取替可能/取替不能と言い換えてもいい。super-flatの加速する今後、更に落差は増すと予想される。これはsome/anyの落差だ。自分が具体的に誰かに向かい"キミ"と呼ぶ、その姿が全く想像出来なくて、今これを書いている。

『顔』というのは"origin"そのもの。
"而二不二"遍く貫く『やが君』で、『顔』にfeaturし"立脚点"なり得るのは、それが唯一無二だから。外形的な違いを個性と呼ぶ。そう言ったのは、養老孟司先生だった。それは美醜を意味しない。"originally"である。ただそれだけ。

"姉のように成りたい、と、そう願ったのはあなた自身のはずなのに"

小糸は七海をアナタと呼ぶ。呼んだ。それが小糸の"想い"の全て。"やが君"の畢竟。

"わたし"は細部に凝集される。
"GOD is in the details."
detailsは"日常"と訳すのが、場合によっては適切なのかな、と、"日常"で"細部"に思いを馳せる。

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