"amour"、若しくはessei"ささつ"

"ケータイ小説"が隆盛の頃、その共通の地平に"怪談話"があるのではないか、という指摘があった。共に通ずる印象として、この両者はにわかに人称が揺れることが多い。これを目撃しているのは"誰"なのか、という"cameraman"の問題が、暗なる違和感として迫り出すのだ。

怪談話を敷衍すると、"超常現象がある"のではなく、"超常現象を体験する"という地平に立脚する。つまり語り部は、一人称視点であると同時に客体化して伝える、というambivalenceな構えを包する。超常現象を体験している、その人を脇で描写しているのは誰なのか、という問題がここでも発生する。体験者が生きていれば、伝聞という"仮構"で難を為す。だから"怪談話"は、登場人物が『絶対に生き延びる』という前提に立つ、"安心安全"な御伽噺で、不条理とは真反対に位置する。ゾンビ映画に通じる娯楽性があり、おおむね不条理は馴致される。真に不条理であるとは、それがそもそも観測されない。『理解』されない以上、"伝達"もされない。negativeな把握、つまり"暗数"として辻褄合わせに呼び出されることはあっても、"positive"に記述されることはない。

差別のありかを"言挙げ"し続けることで、差別的構造を強化してしまう隘路に嵌まるように、超常は重畳と言い替えられる。affordanceな循環構造、つまり"Klein bottle"であり、"胡蝶の夢"。ここに、キミとアナタの差異がある。

『君』を純粋な"二人称"とすれば、『アナタ』は1.5人称くらいに位置している。『わたし』と"アナタ"はセット販売で、つまり"わたし"と対峙することで、はじめて"アナタ"という概念は賦活する。わたしを通し見る『君』を、アナタと呼んでいるのだ。親は子に"キミ"とは呼ばない。"意識高い"親でも、せいぜいアナタ止まりだろう。精神科医・斎藤環は、引きこもりの子を扶養する親に、"親戚の子を預かっているように、接してみて下さい"と助言する。無論caseにより様々で、"ある傾向性"に向け唱導なさっているに過ぎない。"アナタ"以上が必要とされるcaseも、多分にある。問題は、無自覚に拠るもの。

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