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死にざまは人間の生きざまを映し出す。

先月亡くなった91歳だった義父と、残されたもうすぐ米寿をむかえる義母を見ていると、死にざまは生き様がそのまま反映される気がする。

いつの日か、義両親との完全同居がほとほと嫌になったとき、「クソっ!どうせなら、義父さん、義母さんの死にざままで、見届けさせてもらおうじゃないのっ!」と、涙ながらに気持ちを切り替えた覚えがある。


私は、ヒトの亡くなっていくさまを、身近で見届けたことがない。
きっと、さいごまで人が亡くなっていくさまを見届けることで、何か得るものがあるのではないかと、その時思って気持ちを切り替えた。


いま、その時が来ているのかもしれない。


義父と義母が、畑仕事を引退したのは、8年ほどまえのことだった。

二人同時に申し合わせたように、同時に辞めることになった。 
二人の意思で。

辞めるに至っては、いろんな事が絡んで辞めるに至ったが、農家は定年がないと思っていたから、私にとっては衝撃で、まさかそんな瞬間がくるとは思ってはいなかった。


だけど、その時、すでに二人とも80代。
年齢的には精一杯長い事働いてきたことになるかな。と、気持ちを切り替えたものの、違和感はあった。


義父母が年齢の割には、随分元気だったからかもしれない。

とはいえ、一般の仕事の定年が60代、70代となってくるとなると、もう十分と考える人もいるだろうし、何にしろ、義父母の人生であって、私の人生ではない。


畑にこおへんのはいいけど、明日からどうするんやろ・・・。


何気に思ったのを覚えている。


義父は、外に出歩くのが趣味だった。
趣味と言っては語弊があるかもしれないが、何とも想像できない位、交友範囲が広かった。

行きつけの場所もいくつもあったから、畑を引退してでも、それまでと変わらず、自分で車を運転して出歩いた。
息子が車を譲り受けたとき、メーターは驚くほどの走行距離数を示していたという。

ところが、コロナ禍となり、出歩く頻度は少なくなった。

追い打ちをかけるように、次々に周囲の人たちは亡くなっていき、ますます出歩くこともなくなった。


それでも、どこかしら行くところがあって、コロナ禍が落ち着いたころから、また出歩くようになったが、車をあちこちでぶつけてきたり、溝に落としてしまったりと、運転機能が追いつかなくなった。


亡くなる10カ月ほど前に、夫に促されて、運転免許の更新を取りやめになったが、今度はタクシーを使って、自分の好きなところへ出歩くようになった。
しかし、「がん」を患いながら、身体は衰えていき、眠る時間がますます増えていき、ついに寝付くようになったのは亡くなる数か月ほど前のことだった。


義母は、もともと畑仕事と両立させていた野菜畑で、野菜の世話をすることが多くなった。

あとは、気が向いたときに、庭の草引き。時々、ほうきで庭掃除もしていた。
畑を引退すると同時に、義父の分と合わせて、自分たちの分の食事を用意してもらうことにした。

「認知症予防にもなるし、食べるものも違ってくるとなると、その方がいいんとちがう?」と、夫にも相談して、義母も納得し、自分たちの食事を用意してくれるようになった。

それでも、畑に行っていたことを思えば、時間が余るので、テレビを見ていることが多くなった。


農作業を引退してもなお、二人とも、行動をともにすることは滅多になかった。
お節介ながら、長い事、共に仕事をしてきて引退ともなると、てっきりふたりして出かけることも多くなるのではないかと思っていた私からすると意外だった。


状況が変わったのは、昨年の春ごろに、義父の状態が悪くなったころだった。

義父は、心臓が痛いと言っていたが、もち直したものの、衰えが加速したようにみえ、足を引きずるようにして歩くようになった。


手押し車を使うようになったのも、この頃だ。

心配した義母は、タクシーで出歩く義父に、常に一緒に乗り合わせた。

そのうち、体調を持ち直したのを確認すると、安心したかのように義父について乗り合わせることは少なくなったが、暇を持て余すようになったように見えた。


義父の状態が悪くなるたびに、義母の認知症も進んだかのように見え、野菜畑へ行くことも少なくなり、年を超える頃には、料理もしなくなった。

その頃、ちょうど義父の状態がさらに悪くなり、介護にあたっていた義母に随分とストレスがかかっているのも目に見えてかんじた。

もちろん、私たちも出来る範囲で介護を手伝っていたが、仕事をしている私たちには限界があるので、義母に負担が大きくのしかかった。

義母は、私たちに義父について愚痴をこぼしたり、悪態をつくようになった。

義父母がそれほども顔を突き合わせて生活をすることがなかったから、「それもストレスを助長させたのだろう」と、夫も言っていたが、それが、義父へ入院を促すきっかけになった。

義母がある意味崩壊していくさまは見受けられたが、それでも、洗濯だけは続けていた。

干したものを取り入れるのを忘れることは、随分昔からのことだったが、声をかけると、自分で取り入れ、取り入れたものをキッチリとたたむのが義母。

取り入れたものは、そう時間を置かずに、キッチリ丁寧にたたむサマは、普段の義母からすると想像できないが、それだけは昔から変わらない。

「洗濯たたみ」に関してだけいえば、私ならそこまできっちりといかない。


つい最近まで、義母はおそらく家じゅうのモノを洗っていたのではないかという位に、洗濯機を回していた。

義母には、もう洗濯機を使うこと以外に出来ることがなかったのだ。
あとは、掃除機をかけること。

認知症が発覚するまえも、義父が寝ていようが、私たちが仕事から帰ってきて休みたいタイミングであろうが、何かに駆られるように、自分が思い立った時に、とにかく気が済むまで掃除機をかけていた。


最近は、デイサービスに行くので普段の洗濯は、私がしている。


いま、義母がしていることは、デイサービスから帰ってくると洗濯をたたみ、気が向くとどんなタイミングであろうと掃除機をかけ、暇を持て余すとつい最近整理したであろうところでも、もう一度片付けようと騒いでいる。

デイサービスから帰ってくるのが夕方早くで、元々夕食や入浴の時間が私より遅い時間の義母には、持て余すくらいの時間がある。

最近になって日が長くなり、更にテレビのリモコンの操作もできなくなって、大好きなテレビも見なくなったので、取り分けすることがない。

デイサービスが休みの日曜日になると、思い出したように、次々と服をどこからか引っ張り出し、洗濯機を回している。

洗濯機にはボタンのところに赤いテープを貼って、義母が使いやすいよう工夫するが、洗濯機の使い方も危うくなってきた。


以前、よく行っていた野菜畑は、家のすぐ傍にあるが、足の筋力が弱ってきたせいか、行かなくなった。


私からすると、すること、できることがなくなった義母は、路頭に迷っているようにみえる。


義父母の人生を否定する権利は、決してわたしにはないことを前提でいうと、人生なんて、人それぞれだし、人に迷惑をかけなければどんな人生でも構わない。


ただ、若い頃の思惑がそのまま叶ったような気がする。
それぞれの死にざまを、見させて頂いている気がする。


人生100年時代。
平均寿命ほどの長い人生を全うする場合、人は「自分がやってきたこと」や、「選んできた道」に導かれるようにして、亡くなっていくのかもしれない。

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