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果樹農園を営む農家の嫁です。子育てがひと段落して空いた時間もできたので、日常感じたこと…

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果樹農園を営む農家の嫁です。子育てがひと段落して空いた時間もできたので、日常感じたことなどを自分のペースで発信していこうと思っています。

マガジン

  • トロフィーやボードをいただいた記事

    トロフィーやボードをいただいたときに、スクリーンショットを撮ってためていましたが、こちらのほうへ載せていこうと思います。 「スキ」をくださり、ありがとうございます。

最近の記事

とりあえずやってみることで、新たな気付きに出会えることがある。

私の行動範囲は狭い。 畑か、行きつけのスーパーか、家の三択だと言ってよい位だ。 一生、畑と家往復、そして時々近くのスーパーへ行くくらいの人生で終えるのかもしれない。 だけど、特別どこに行かなくとも、経験値を自分なりに上げてきた。 いまある限られた生活の中で、いろんなことに取り組み、できることを増やしてきた。 もし、本来の面倒くさがり屋100%のわたしのままでは、経験値もあがらなかったし、視野も広がらなかっただろう。 また、いろんなことに取り組むことによって、一生通

    • 義母さん、長生きしてたらいいこともあるね。

      義父が亡くなって、1カ月がたとうとしているが、義父が亡くなってからというもの、義姉や義兄が顔をみせることが多くなった。 義母がデイサービスが休みの日曜にあわせ、今のところ、義姉と義兄が代わるがわる来てくれている。 年に数回程度しか、実家に顔をみせていなかった義姉は、義父の状態が悪くなってからというもの、月に数回顔をみせるようになった。 7,8年実家に顔をみせなかった義兄は、義父の状態が悪くなったことを受けて、義父が亡くなる1カ月ほど前に、久々に顔を出した。 ふたりとも

      • だんだんと家族に、夫婦になれたらそれでいい。

        人間だもの 感情的にもなるし、腹も立つ。 だけども、負の感情は引っ張らずに切り替えて、また普通に会話ができればヨシとしよう。 これが結構難しかった。 若い頃は・・・。 認知症の義母と生活をしていると、感情的にもなるし、腹も立つ。 いや、認知症が発症する前から、それはあったけど、家の中でも距離を置くことができたから、少なかった。 (おもいっきり距離置いてたし。) 義母の付いて出る言葉や態度に揺さぶられ、つい感情的になる。 そんな自分が嫌になり、自己嫌悪に陥る。

        • 身体が動かなくなるその日まで、できることの引き出しを増やす。

          義母は、今でも時々、「薪を焚こうか」と気を遣ったふうに私に歩み寄ってきてくれる。  だけども、私の本心は「今更言われても仕方ない」。 薪は、ある程度熟練していないとまともに焚けない。 私には今更、義母に薪の焚き方を教える時間はないし、私の好みの焚き加減がある。 どうして、「薪を焚く」ことに向き合わなければならない時に、向き合わなかったの?である。 私が嫁いできたときには、夫の仕事だったし、その前には同居の夫の曾祖母さんが焚いていたという。 夫にとってもキャパオーバ

        とりあえずやってみることで、新たな気付きに出会えることがある。

        • 義母さん、長生きしてたらいいこともあるね。

        • だんだんと家族に、夫婦になれたらそれでいい。

        • 身体が動かなくなるその日まで、できることの引き出しを増やす。

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        • トロフィーやボードをいただいた記事
          114本

        記事

          死にざまは人間の生きざまを映し出す。

          先月亡くなった91歳だった義父と、残されたもうすぐ米寿をむかえる義母を見ていると、死にざまは生き様がそのまま反映される気がする。 いつの日か、義両親との完全同居がほとほと嫌になったとき、「クソっ!どうせなら、義父さん、義母さんの死にざままで、見届けさせてもらおうじゃないのっ!」と、涙ながらに気持ちを切り替えた覚えがある。 私は、ヒトの亡くなっていくさまを、身近で見届けたことがない。 きっと、さいごまで人が亡くなっていくさまを見届けることで、何か得るものがあるのではないかと

          死にざまは人間の生きざまを映し出す。

          そして我が家から軽トラ6台分の荷物がなくなった

          はじまりは、義父が亡くなったこと。 その前から、折を見て、時々自分のモノを断捨離していたが、義父が亡くなったことをきっかけに、家のモノの断捨離が随分とすすんだ。 義父が亡くなり、一週間しないうちに義姉がやってきて、「さぁ!断捨離やっていくよ!」とばかりに、義母に「いる・いらない」を聞きながら、義父のもののみならず、義母のものも断捨離がすすんだ。 時々「いらん。いらん。もう着いひん(着ない)やろ?」と容赦なく横やりを入れていく。 私はそばで、あっけにとられながらも断捨離

          そして我が家から軽トラ6台分の荷物がなくなった

          ふたりの父が亡くなって分かったこと

          とうとう義理の父も亡くなってしまった。 私にとっての父は、実父と義父。 実父と義父は全くもって、共通するところも似たところもない。 ちょうど3年前の4月に、79歳で亡くなった実父は、戦争で夫を亡くした母親(私の祖母)によって女手一つで育てられ、地元の工業高校を卒業するも、就職が決まっていた地元の企業には就職せず、大阪の大手電機メーカーの工場に就職した。 当時、戦後の高度成長時代で、「きんのたまご」と呼ばれた学校を卒業した若者たちが、集団就職で都市部へ移動したというから

          ふたりの父が亡くなって分かったこと

          あの時感じることが出来なかった、ワクワクを感じたできごと。

          一昨日、「やったぁ。今年の剪定、終わりっ!」と、柿の剪定を終え、ホッとする間もなく、昨日、言い渡されたのは、夫が焦っていた、山椒の苗木植え。 私が剪定を終えたのをちょうどいいことに、息子とふたり、「苗木植えをやってくれ」という。 焦るのも無理もない。 購入した苗木を、仮植え(10本ずつの束になった苗木を、土に植えて保存しておくこと)して、もう2週間ほどたつ。 10日ほど前に義父が亡くなって、てんやわんやで、手つかずだったのだ。 およそ、20年ぶりの山椒の苗木植え。

          あの時感じることが出来なかった、ワクワクを感じたできごと。

          「あの世」へたどり着くまでは、ずっと修行の日々。

          葬儀で泣き崩れた義母の立ち直りは、そこそこ早かったように思う。 次の日にはケロッとしていて、今では結婚生活の愚痴まででてくる。 だけど、その一方で、祭壇がある仏の間の隣にある元からの寝室で寝ようとしない時がある。 時に、テレビのあるリビングに別の布団を引っ張り出してきて寝ているときもあるし、ひとりで寝るのは寂しいようだ。 そんな義母の認知症は、一段とすすんだ気がする。 そんな義母にここまで振り回されるとは、思いもしなかった。 ときどき、想像もしないことをしてみたり

          「あの世」へたどり着くまでは、ずっと修行の日々。

          義父との尊い日々

          私がこちらへ嫁いできて28年。 「都会から嫁さん、来てくれるんやから、キツイこと言うたらアカンよ」と、義母の義父への言葉がけではじまった、義両親との同居。 親でもないのに、「義父さん」「義母さん」と呼ぶのはどこかこそばくて、それでも「よいヨメにならなくっちゃ」と必死だった。 義父は、義母、夫がいうように「外へは良い顔をする」一面があって、本来は会話術やコミュニケーション能力は抜群だが、家のモノに対しては、いわば「働くコマ」のそれ以上でもそれ以下でもないので、私にも、雑談

          義父との尊い日々

          義父の死によせて ありがとう。義父さん!

          義父が、6月の92歳の誕生日を待たずして亡くなった。 息子と娘の誕生日は、月は違えど、日はおなじで、義父も息子と娘の誕生日とおなじ「日」に亡くなった。 朝6時に夫の携帯に「血圧が下がってきたので・・・」と、病院から一報をいただき、駆け付けたが、微弱に脈を打っているだけで反応はなく、手も既に冷たかった。 入院の予定期間は1カ月ほどで、その後のことは、施設に入るか、家に帰るか決まっていなかったが、期間いっぱいまでもたずに命が尽きたのは、義父の思いやりだろうか。 家に帰って

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          義父の死によせて ありがとう。義父さん!

          義父さんが剪定して育てた柿、私も剪定させてもらっているんやなって思って、仕事してるんよ。剪定、楽しいよ。ありがとう。 病床に伏する義父に久しぶりに会って、思いの丈を伝えてきた。 喋れる状態ではないけど、ちゃんと聞いてくれてた。 ケシガイト(畑の名前)、終わったよ!残り、畑一か所。

          義父さんが剪定して育てた柿、私も剪定させてもらっているんやなって思って、仕事してるんよ。剪定、楽しいよ。ありがとう。 病床に伏する義父に久しぶりに会って、思いの丈を伝えてきた。 喋れる状態ではないけど、ちゃんと聞いてくれてた。 ケシガイト(畑の名前)、終わったよ!残り、畑一か所。

          (介護)デイサービスを利用することが、当たり前の世の中はくるのだろうか。

          義母が、週に一回利用していた介護のデイサービスを、週5回利用するようになってしばらくたつ。 義父が入院したタイミングと時期をほぼ同じくして、3月から月曜から土曜の間、デイサービスに通うようになった。 安心して仕事ができることが理由で夫が決断したが、義母がデイサービスに慣れるにはそれがいちばんだと思った。 基本、何も言わずに行ってくれるようになったが、その日の調子によってまちまちだ。 そんな中、義母が私に何気なく聞いてきた。 「kakiemonさん、ワシが行ってる習い

          (介護)デイサービスを利用することが、当たり前の世の中はくるのだろうか。

          子供たちの母校に思いを馳せて

          最近、義母がいろいろモノをなくすことが多いので、母屋の部屋に目にやることが多くなった。 あちこちにいろんなものが散りばめられているので、今まで目にしたことのない珍しいモノへと目が行くことも珍しくない。 この間は、子供たちが通った小学校の「小学校閉校記念誌」を見つけた。 記念誌が発行されたときに、地域の各家に配られたもので、いちど目を通した覚えがあるが、懐かしくて見入ってしまった。 記念のDVDが添付されているとなると、見たくなるのが情。 雨で仕事が休みなった昨日、早速

          子供たちの母校に思いを馳せて

          極楽の幸せにつつまれて

          その瞬間、わたしは極楽の幸せにつつまれた。 その夜、安心して枕に身をゆだねるようにして、眠りに着いた。 まるで、私を包み込んでくれるような安定感は初めてだった。 その日は、予定急変で、夫が入院先の義父より「『救心』と着替えを持ってきてほしい」と声にならない声で電話があったから、息子と一緒にしている、消毒の仕事を変わってほしいと申し出があった。 私は、1年の農作業の中でも、最もゆっくりと自然を感じながらできる「柿の剪定」が続く日々。 夫と息子は、「山椒の剪定」をいった

          極楽の幸せにつつまれて

          私の名前を呼んでくれる有り難さ

          1週間ほど前のこと。夫に義父が入院することを言い渡された、次の日の朝。 いつものように、息子に柿畑に送ってもらい、仕事をしようとしたその時。不意に昨晩のように涙がでた。 夫に、義父が入院をすることを言い渡されたその時も、涙がでて仕方がなかった。 初めは何の涙か、分からなかった。 自分がなんで泣いているのか、分からなかった。 だけども、誰ひとりいない畑で泣くには遠慮はいらなかった。 あんなに声を出して泣いたのは、いつぶりだろう。 畑で泣くのは、たいてい夫と喧嘩すると

          私の名前を呼んでくれる有り難さ