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自己紹介

けんとです。
SNS通していろんな人と会う事も増えてて過去の事とか結構聞かれるのでまとめておきます。仕事に関係ない事とか自己満で振り返るために書いてます。かなり細かく書いてるので長くなりますがどういう思いや考えでこうなったか、とかかなり大事なので読んでみてください。

1990年生まれで大阪市生まれ、堺市育ち10年間堺市で育つ
小学生の時はサッカー6年間、ソフトボール1年、体操3年、テニス1年をして中学校からは習い事はテニスと塾のみに

高校は私立へ入学
中学生ながら関関同立には行きたいとうっすら思っていたので偏差値の割に関関同立に行っている数が多い高校を選択
今思えば調べ方が相当甘かった

コースによって偏差値が45〜60弱の同じ学校でも学力差のあるところだったので上のクラスだった僕は無意識に下のクラスを見下すようになっていた。元々人の事を蔑んでいたり、口に出して馬鹿にしたりしていたのが余計にひどくなったと思う。それがクラス内でもあるので成績悪いとすぐいろいろ言われる。僕はそれが悔しくて頑張れた時もあったけど周りには敵を作っていたかなと今振り返れば思う。
高校3年間はテニスに打ち込む
小学6年から始めて中学生の頃に週3練習。ジュニアの試合にもたまに出るが全部予選負け。勝ちたければトーナメントクラスで毎日練習してくださいと言われてる上のクラスが強すぎて(プロになる人もいるくらい)びびってしまって親の経済状況のせいにして上がらなかった。それでもテニスは続けて高校からは憧れていた部活に。スポーツ学校でなくとも自分で練習すればインターハイやそれにつながる試合もたくさんあったのでチャンスを感じた。けどスクールとの掛け持ちが禁止。初めて強くなりたい、勝ちたいと思ったので部活をやめてスクールのトーナメントクラスで毎日テニスをすることに。経済的に厳しいのは本当なので親を本気で説得して別のもう少しやフメのスクールに通うことに。トーナメントクラスはオートテニス(機械が球出ししてくれる)とコートが無料だったのでレッスンは週3であとはずっと自主練。この頃から自分で考えて練習したりスケジュール組んだりできるようになる。人にさせられてたのから自分でやるのは楽しくて、授業の合間に筋トレ(授業中ダンベル使ってトレーニングしてたこともあり落として問題にもなった)したり、昼休みは壁打ちにいき、授業終わってからレッスン、そのまま終わってからオートテニス、ノルマこなしたらサーブ練習、そしてそこからジムにいって終わってからまたランニング。ご飯は1日5回食べてたけど体脂肪5%しかないくらい仕上がってた。そしてこれは誰に言われたわけでもなく、相手がいるわけでもないのに年間360日くらいは自分でやってた。サボりたいって思った事ほとんどない。結局高校2年で初めて本戦に上がり、次は関西を目指す。野球で甲子園で優勝するくらい大阪から甲子園に出るのは難しいというくらい、テニスもインターハイにいけるのは2000人いて3人くらい。しかもだいたいインターハイ上位。ここまで来るともう高校生の自分は無理だとわかっていたけど関西なら20人くらいいけるのでそこを目指していた。結局3年の最後の試合はダブルスはペアの怪我で出れず、シングルスは予選決勝で負けてはるかに及ばず。
けどやってきて後悔は全くなかったし、高校3年間の努力を小学生や中学生からやってた人には勝てないのは当然だから才能がないせいだ、とかは思わなかった。ろくに頑張ったことがない中学生の時は才能が、とかすぐ言い訳してたけど、才能のせいにするのはやめようとこの時から思うように。

テニスの高校最後の試合が終わってから毎日13時間勉強して第一志望の立命館の理系に後期で滑り込み入学。
学生時代に1番嬉しかった瞬間がこの時とテニスの試合ではじめて本戦に上がった時。一瞬のためにここまで頑張れることってこれから先もそんなにないと思う。

大学に入ってようやく興味のある勉強しながらテニスに打ち込み、テスト勉強もほどほどに要領よく卒業していける余裕な学生生活
とはほど遠かった。
専攻が難しかったのもあったのとそもそも文系と理系では卒業難易度が違うのに聞いてた話は理系ばかり。また失敗
結局テニスとスロットばかりの日々で卒業に5年かかりました。
かなり真面目にテニスをするサークルだったので女遊びはほとんどしてこなかったけどこのざま。
高校生の時ほど尖ってなかったけど今から思えばまだまだとげとげしい。いい先輩に恵まれたなーと思う。
テニスは高校の時頑張ってたおかげでそのまま週6、7練習して田舎からインターハイに出場する選手にたまに勝てるくらいにはなっていた。関西の試合で入賞したりすることもたまにあった。
そして高校の時にはいなかったチームメイトもいるので試合に負けて一緒に泣いたり、笑ったりできたからなんやかんや最高の学生生活だったと思う。

就活のタイミングで実はビジネスを始めるきっかけになるができる。そう、MLMだ。学生禁止でも誘ってくるのは学生だったのでおかまいなし。結局それはしなかったけど興味をもつきっかけになったのでいろいろ自分で調べるということをここで知る。
その時のスピーカーの人がつないでくれた起業塾に入塾する。これが初めてのカード枠上限&リボ払い
地獄の始まりでした。

当時はすごい人に会ってみたい、という思いがあったので嘘か本当かわからなくても大きな事言ってる人にすぐ憧れてました。億とか、綺麗な女の写真とかメールみるだけでこうなりたい!誰でも思いつく理想の金持ちだったのですが今思えば何も根拠も調べないでよくないのにお金払って貴重な時間も使ったなーと思います。高校選びや大学選びに多少失敗してたのはわかってたけど結局自分の努力でなんとかなると思ってしまっているがゆえ治ってなかったのです。
ルールや期間がある程度決まっているものの失敗とルールも何もないところでも失敗の違いはレベルが違います。
結局起業塾は勧誘とセミナーだけで稼げるようになること人は一人もいませんでした。
なので途中でフェードアウトした僕は本せどりをすることになります。
ここで初めて物販をすることになります。
本せどりが1番初期費用が安く回転も良さそうだと自分なりに思ったのとツールが月額制でそこまで高額でなかったのでそこまてま重くスタートしませんでした。
月商10万まではすっといって、それなりに稼働して月商30万くらいまではいったところで少しつまったのですがそのタイミングでツール開発者が行う無料のセミナーがあってそこで理屈にかなっていた考えや実績を聞いてようやく本物に会えたと思って感動したのを未だに覚えています。大学生で参加している人もいなかったので懇親会ではたくさんの人に話しかけてもらったのも覚えています。そのセミナー講師はたまたまテニスをやっている人の同級生でもあったので成功者であるのは間違いなかったですし、未だにその人の事をツイッターで見ていますがまだまだ進化してました。
結局本せどりは月商100万、粗利20万くらいでようやくそれだけでぎりぎり生活できるところまでいきましたが自分の中では限界を感じたのでそのタイミングで他の物販へと切り替えていきました。今思えば自分なりにエクセル使って店舗データいれたり、他の地方にいったりしてましたが他にやっている人にあったりせめてツイッターをみていたりしたらもっともっと稼げたのだと思います。ですが起業塾から切り替えて少しだけうまくいってしまった事である程度いっては違うことの繰り返しになってしまいます。
起業塾で30万払って、せどりしながら別の完全歩合営業のコンサルで30万払ったり、結局別のMLMしたりして借金は100万くらいになってました。
そこで初めて就職活動をするのですが、最終面接の前の日にお金を出すから物販をしようと誘われて迷っていたところ最終面接も落ちたのでそっちをすることに。
これがカメラ転売でした。
カメラの仕入れは高額で自分では出せないのでノウハウ買ってもらって仕入れ資金も出してもらえるとなってとびつきました。
それで月粗利30万くらい稼げだしたのでその出資者のメインの仕事の投資をすることに。いろんな人を紹介してもらってかなり安心してました。芸能人やいろんな社長さんまで会ってたので安心してました。
けど結局その人も騙されてた側の人で詐欺でした。ヤフーニュースにも載った事があるくらいの大きな詐欺でした。

結局何人か紹介したのと自分でも200万損して借金200万
カードの枠つかったりキャッシングしてたので結構しんどかった。

このタイミングで仕事も一緒にしなくなった。

ここからようやく真剣に人付き合いやお金の稼ぎ方を考えるようになる。
すごそうな人=成功者 というのはもう薄くなっていった。
まず仕事の話がでる時はその人の事徹底的に調べたり聞いたりして怪しいなと思ってる時に何か誘われたら今後会わないようにする。これだけでその辺のカモからは少しだけ抜けれたと思う。

ここからは自分で払えるお金がないので人付き合いは紹介あった人と誘われたやつだけに絞って日払いのバイトをしながら週末はテニスのレッスンとサークルを運営。ネットからも集客してレッスンだけ月10万くらい稼げてたしすごく楽しかった。
この時から飲み会にいくようになり自分もイベンターとして稼働しだす。
毎週合コン組んだりクリスマスパーティしたりとしてMLMより即金性あるしみんな喜んでくれてるのが目に見えてわかってたので精神的にかなり落ち着いてきた。
カードの枠が空いたのでまたカメラ転売再開。当時流行ってた民泊もはじめてこの時で月収30万ちょっとくらいあったけど昔と稼ぎ方が違うのでかなり満足度は高かった。自分で考えてやってる事に満足したし責任感もついた。
飲み会が増えた流れで当時一緒にテニスをしていた友達からスポーツバーの話が出てないものを作ってみたいと言う思い、テニス関係でご飯を食べたいと言う昔からの夢を叶えたいと言う思いもあったので半分のりだったのだけど初めて事業計画書を作るために数字だしたり不動産の内覧に何件もいったり、飲食店やってる人の話を何人も聞きにいったりしてみんな推してくれたのもあって始めることができた。それが梅田でやってるバーでもう2023年現在もうすぐ7年になる。
そこまで調べたのには色々理由があるけどまずは家賃とか簡単にはなくせない固定費がかかるから本気でやらないと絶対終わると初めて覚悟したから。2つ目に今まで無知だったのにろくに調べもせずに失敗してきたのを少しだけわかっていたから。3つ目に今までこそこそビジネスやってきたけどバーを出すのに知り合いに声かけないのはありえないので失敗したらめちゃくちゃカッコ悪いなと思ったから。多分3番目が1番強い。結局強がってるけど誰よりも気にしーだったので。なんであんな言い方したんだろ、とか一週間くらいひきづったりしてた。それは高校、大学と馬鹿にされたり、変なプライドがいろいろこじらせたからだと思う。

とにかく失敗できなかった。借金あったのに国金にもいかずにキャッシングでスタートしてしまったのだから、、
最悪とばせばいいとかなかったから頑張れたのだと思うけど今思えばなんてリスクしかないことをしたのだと思います。社会人経験なしの25歳はこんなものかもしれない。

バースタートしてsnsから三ヶ月くらい毎日誰か来てくれて好調なスタートをきれた。
けど接客業をコンビニ以外でしたことがないので接客は相方から学ぶしかない。飲食に関しては全くの素人なので余計に。この時に先輩がいることの大事さに気づく。ただ二人ともお金が極限までなかったのと、自分の気遣いが足りないことが多すぎてギスギスしてうまくいってなかったわけでもないのに1年でやめてしまったので途中から自分一人に。今思えば本当に申し訳ない。もし会えるなら謝りたいとかずっと思ってたけど、彼は彼でそこから独立してテレビに出るような有名企業に。未だに会えてない。
僕は僕で一人でやっててこんなに僕のためにいろいろしてくれるお客様がいることに心の底から感謝するようになったので自分の接客や店のハードの部分も見直すようにした。そしたら少しずつお客様も増えてきて常連さんの一体感は同業者に名物とまで言われるように。客層も抜群にいいことも毎回言われるのでやっててよかったーと思うことがしょっちゅうある。
周年パーティではシャンパン100本開いたりとキャパの割にはかなりの物だと言われるようになって色々恵まれてるなーと再認識。

順調だったので他のお店のお客様とも仲良くしたり店にも来てもらったり、仕事の話もちょこちょこしてたのでそのうちの一人に居酒屋出すから手伝ってほしいと言われた。
なので間借りする店舗に行ったり、立ち上げスタッフに会ったり、家で料理をもてなしてもらったりしてしてたのでいいかなと思って出資者に。
これがまた詐欺で何かと言い訳つけて売上もらえないのと返金もできず。スタッフ全員ぐるなら話があうけど結局全員騙せされていたからこうなってしまったのだと
結局返金する念書もかかせた次の日にとばれて回収できず。いつまで経っても詐欺に合うのだなーと再認識。

結局この借金も全然遊んでこなかったのですぐ返済。利息だけで借金100万超えて返したと思う。
返しきるまで心の底から笑ったことなかったのかもと返し終わってから再認識。つらかったんだなーと
26歳まで年齢確認されてたのが気づけば年齢相応以上に。一気に老けたな。人生なめてたのにこれくらいで済んだのは全部バーのお客様やスタッフのおかげだと思う。もしバーやってなかったら未だに日払いのバイトしながら同じ職場にいるにも関わらず学歴だけを振りがざして見下している痛いやつになっていたかもしれない。それくらい人生変わったと思う。
借金返したタイミングで物販再開、法人設立。最初はブランド物を売っていて、余裕出たお金で中国輸入のコンサル受ける。一年目は大変だったけどいい講師に会えたので中国輸入を始めてから2年目から人を雇い出す。教育はバーの方でしていたけど来る人が全く違うので衝撃を受けることもたくさんあった。会った事のない人達にたくさん会ったけどまた勉強になった。できない人達に対して一緒に考えて、悩んでいくことを覚えた。
少しでもできるようになったとき本人より喜んでる自信がある。そこからかれこれ5期目突入して外注、アルバイト入れてスタッフも10人ほどに売上も月商2000万弱に。まだ伸ばせると思うしいいものは取り入れてスピードを出していこうと思ってる。
これだけたくさんの仕事に関わって、その中でも物販はたくさんやってまだこの会社を伸ばして行くのか、それは仕組み化がしやすかったから。どの仕事も最終手放しにできないと会社は大きくならない。一人の限界にぶつかってある程度しか稼げない人はたくさんいるのを見てきたのでそこを最優先したかった。なので今の縦積み中心の物販のスタイルは1番適していると思った。
そこに別の商材もってきて足してもある程度プラットフォームのことわかってるのでスタッフに振ってもすぐなれて自分より上手にさばいてくれる。なので中国輸入でスタートするのは最強だと未だに思ってる。
今の目標はついてきてくれる後輩を稼がせること。そして今後は数人限定でコンサルも考えてます。やっぱり人に感謝されたいしその人達と遊ぶのが1番楽しいから。
長くなったけどこういう価値観になったのは学生時代のことから、バーをやったりと色々やった上でできたもの。ずっと物販を一人でやってる人と少し違うと思う。
もし少しでも共感することとか質問があれば連絡もらえると嬉しいです。


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