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「無言電話」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』補遺作品  

        
 
 古希も間近いあき子は数年前に夫をなくし、子供も授からなかったこともあって、今はひとり暮らしである。寂しくないこともないが、これが定められた自分の人生なのだという諦観も働いて、日々の静かで落ち着いた暮らしに安住している。家族と一緒に賑やかに暮らす人を格別うらやましいと思ったこともない。人間には人それぞれの暮らし、生き方があり、自らの運命を受容してこそ心の平安は得られるのだと思っている。

 そんなあき子だが、年のせいか、近頃とかく昔の思い出に我知らず耽ることが多くなった。日暮れ時など居間の籐椅子に腰掛けてひとり窓外の暮色を眺めていると、ふと過ぎ去った日々の追憶がいっせいに脳裏に蘇ってくることがある。
 
 あれはもう十数年も昔のことだ。晩秋に近い頃だった。日没が日増しに早くなり、あき子は台所で一人侘しい夕餉の支度をいそいでいた。其の時、隣の居間でリンリンと電話のベルがなった。濡れた手を拭き拭き受話器を取った。

「もしもし〇〇ですが」
「------」
「もしもし、どちら様ですか」

 相手は無言である。二、三回繰り返したが、受話器の奥に感じ取れるのは、ただひっそりとした沈黙のみであった。いたずら電話かとも思った。だがそのときあき子は電話の中に微かな気配を感じ取っていた。相手が耳を澄ましてじっとこちらの応答を聞いているのではないかという気配である。これはなんの根拠も無い単なる直感だった。だが心の中になにか引っかかるものがあった。やがて電話は向こうからぷつりと切れた。 

 あき子には弟が一人いた。その頃四十代前半の男盛り、上背はあるが細身で真面目な男。美人の恋女房と、小、中学生の二人の娘がいる。下の娘を殊に可愛がっていた。見たところ幸せそうな家族だった。少なくとも其の時まではあき子はそう思っていた。だが人間の暮らしにはその裏になにが隠されているか分からない。殊に男と女の間には。

 実は弟の家では今に言う家庭崩壊がその頃徐々に進んでいたのだ。あき子の全く知らない間に……。

 弟はその頃どんなに苦しんでいたのだろうかと思う。一人血を分けた肉親であるあき子は、姉としてその苦悩に気付かなかったことが、今なによりも悔やまれる。

 とても優しい男だった。勤め先で知り合ったとき子という女性の魅力にすっかり心を奪われてしまった。「ミスХХ」にも選ばれたことのあるとき子は若しかしたら男を魅了する巧みな術でも本能的に身につけていたのだろうか。確かに一見魅力的な女性だった。弟が夢中になったのも分かるような気がする。

 弟は母の反対にも耳をかさず結婚を急いだ。披露宴の席での幸せそうな笑顔をあき子は今でも忘れることができない。本来なら唯一無二の恋女房だったとき子との結婚は大きな幸せをもたらす筈だった。だが、この結婚がそれからの弟の不運な人生の発端だった。
 
 とき子は勝気な女性だった。自分の美貌に自信を持っていたのかもしれない。結婚後もなにかと言い寄る男性がいたという。その上とき子は浪費癖があった。派手で高価な衣服をつぎつぎと買いあさった。 
「とき子の衣装代が大変なんだよね」
  弟のふと洩らした言葉を覚えている。とき子に言い寄る男たちの存在、そして底なしの浪費による経済の圧迫でその頃悩みぬいていたようだ。

 無言電話のあった日の三日後、あき子は突然の悲報を受け取った。弟の住む街の市役所からの通知だった。それは弟の自死を告げる知らせ。遺骨を受け取りにくるようにとのことだった。一人弟の遺骨を抱えて家に帰った。
家族から離れて一人住んでいたアパートの一室で自ら命を絶ったという。何故そんな孤独の中で一人死ななければならなかったのだろうか。たった一人の弟の死はあき子に計り知れぬ深い悲しみを齎した。今になっても決して癒されることがない。時に生前の面影を偲び瞼を濡らすことも度々である。

 弟は自らの人生に敗北した。確かに男として弱かったかもしれない。でもとても優しい男だった。何よりも純粋にとき子を愛していた。だがとき子にとって男の優しさとか純粋さなどは、なんの価値もなかったのだろう。激しい暴力的な男の愛とか、財力に惹かれたのだ。

 とき子はパートとして働きに出た先で知り合ったやくざじみた男と不倫を重ねた。弟はそんな自分とは対照的な男に太刀打ちも出来ず、全身全霊で愛していたとき子の不倫に絶望し、また経済にも破綻して自らの人生の幕を下ろした。

 世の中には男を次々と滅ぼす魔性の女がいる。弟もその魔手にかかって身を滅ぼした一人だった。伴侶の選択を誤ったとしか言いようが無い。
 
 葬儀は夫と私、妹夫婦の身内だけでひっそりと済ませた。せめて弟の残した娘達だけでも出席させて、亡き父の冥福を祈らせたいと思ったが、不倫の妻は勿論娘達も誰一人出席しなかった。三人が今どこにどうしているのかあき子は知らない。知りたいとも思わない。ただ父のいなくなった娘たちが幸せに暮らしているか、ただそれだけが気掛りである。

 葬儀も済ませ、いくらか気分が落ち着いてきたある日、あき子ははっと心に思いあたる事があった。あの自死の知らせの三日前、夕暮れ時にかかって来た無言電話の主はもしかしたら弟だったのではないだろうか。あの受話器の奥の沈黙の時間は弟が姉のあき子に最期の別れを告げていた時ではなかっただろうか。自ら命を絶つ前にひとこと姉の声を聞きたかったのかもしれない。いやそうに違いない。あき子は確信した。悲しい確信だった。

 それにしても弟が余りに不憫である。あき子は今でも後悔の念にかられる。あの時相手の沈黙の主が弟だと何故気づかなかったのだろうか。其の時弟が既に死の決意をしていたとしても、それに気づいたあき子の必死の制止の言葉を聞けば、はっと我に帰って死を思いとどまったかもしれない。瀬戸際で弟の命をつなぎとめたかもしれない。

 しかしすべては遅かった。弟は電話の奥で一言も声を出さず、永遠に二人の現世でのえにしは途切れたのである。 
 
 弟が孤独の中で自死してからの十数年の歳月、長いようでもあり、また束の間の時間だったようにも感じられる。今でも存命であれば初老の上品な紳士になっていただろう。二人でなき父母のことなど語りあっていたかもしれない。元気だったころの眼鏡をかけた優しい笑顔が目に浮かぶ。結婚当初あんなに幸せそうな笑顔だったのに。もう永久に失われてしまった------。

 弟は、今は亡き両親の墓に共に眠っている。その死が父母の没後であったことが唯一の救いである。もし母の生きている時だったら、母は悲しみのあまり気が狂ったかもしれない。

  今、この世のすべての苦悩から解きはなたれ、誰よりも弟を愛した母の胸に幼な子のように抱かれて、安らかな眠りについていることだろう。その魂の平安、これだけがあき子の胸に去来する唯一の願望である。
 
 居間の籐椅子に腰掛けて独り弟の思い出に耽っているあき子。窓外の夕焼け雲が美しい茜色に照り映えている。子供のころ、近所の原っぱで弟や友達と一日中我を忘れて遊んだことを思いだす。黄昏時になると弟の手を取ってあわてて家路へと向かった。遅くなると母に叱られるからである。其の時二人で眺めた茜空は、今と同じように美しい金色の光芒を放っていた。
 
        二〇〇一年一月十五日執筆



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