見出し画像

仏教の多様性

こんにちは或いはこんばんは、随分とご無沙汰しております。
さて今回は仏教の多様性についてお話しようかなと思います。
現在世界中の仏教には様々な宗派、グループがあります。
大まかに大乗仏教、上座部仏教、密教と分けれますがその中でも大乗仏教には更に複数の宗派があり仏教というのは実に多様性に富んだ世界でも稀に見る宗教です。
とくに日本の大乗仏教は浄土教、密教、律宗、禅宗、法華など様々な宗派がありますが、皆さんが仏教と言った時にやはり想像されるのはこういった「日本の伝統仏教」ではないでしょうか?

元々仏教はシャカムニ(以下ゴータマ)ブッダの教団だけでしたが、仏滅100年後に十事の悲法と呼ばれる事件があり第二次結集の際に上座(テーリヤ)と大衆部(マハーサンギーティカ)に別れさらに20以上の部派に枝分かれしてしまいました。
この事が今日における仏教の多様性の始まりであるのですが、それぞれ違う教義や経典、律(ヴィナヤ)、戒(シーラ)、論(アビダンマ)を用いり、または律を棄て新たな戒を導入(!?)したりしてそれぞれがそれぞれを批判し合い喧嘩する事もあります。
在家や非仏教の人達からしたらホント混乱しますし何がホンマの仏教やねん、となりますね笑

さて前置きが長くなりましたが、今回はこの多様性について野球に例えてお話したいと思います。
野球といえばまず思い浮かぶのはピッチャー、つまり投手と打者(バッター)ですね?
私が思うにゴータマ・ブッダは仏教界の大谷翔平選手です笑
豪速球のストレート、カーブ、スライダー、などを直球と変化球を交えてブッダは説法します笑
165㌔の豪速球です、えらい速い球(ゴータマ)ですねぇ笑
まぁ冗談はさておき、ストレートと少しの変化球(待機説法や方便など)を用いて智慧(パンニャ)と気づき(サティ)でもって打者をスリーアウト(三毒)していく。
ブッダの投球は経でありブッダの言葉であるといえますが仏滅後に開発された変化球は論(アビダンマ)であり諸派の教義であり実践法であると私は考えます。
もう少し丁寧に説明しましょう笑
仏滅数百年の間に様々に枝分かれした部派や学派によって研鑽され仏説の実践や教義を理論化、哲学して註釈文献(論:アビダンマ)が生まれました。
さらに新たな地域への伝道により未開の文化や信仰を吸収した各教団の実践や教義の違いがやがて特色ある多元的多様性に富んだ仏教へと変貌していきます。
ゴータマ・ブッダの時代はまだ直球やカーブ、フォーク、シュート、スライダーなどの基本的な変化球しかなかったのです。
やがて様々な部派に別れ数百年経つと、チェンジアップ、シンカー、カットボール、スクリュー、スプリット、スローカーブなど様々な変化球(教義、実践法)が生み出され研究され実践の中で理論(アビダンマ)が作られていくわけです。
さらに大乗仏教という新しい概念や信仰が生まれたらさらにナックル、ツーシームやらスイーパーやらパームボール挙げ句の果てには消える魔球...
前時代より更に奇想天外な変化球(密教真言、念仏など)が現れます。
それらは確かにブッダの時代にはなかったものですからブッダの言葉(原始経典)、ブッダ直伝では決してないわけです。
しかしいずれにしても直球であろうと変化球であろうと打者(煩悩)をローパ、ドーサ、モーハの三毒をスリーアウトしていく、この事には変わりはないのです。
野球というのは団体戦ですから、打者、投手以外にも内野外野、捕手など皆さんで助け合いゲームを進めていくわけです。
チームは云わばサンガですね笑
そして野球はスポーツですからルールがあります。
ルールは律(ヴィナヤ)であり、スポーツマンシップ(選手としての規律)や日々のトレーニングは戒(シーラ)ともいえます。
ルールである律を守らなければ野球(仏道修行)が出来ませんし野球選手(比丘、比丘尼)とはいえません。
日本の仏教宗派では残念ながらこの律や、サンガすら無い状態が続いてますのでこれは大変な問題なのです。
野球をプレイ(実践)してるはずが草野球ですらない全く別のスポーツ(宗教)になってしまっている、これは多様性とはいえないのでは?という疑問が生じても仕方ないのです。
いくら変化球や凄く速い直球が投げれてもそれだけでは野球(仏教)とはいえません。
律と戒を守り経典(ブッダの言葉)を元に実践(論やそれぞれの教義に基づいた修行)をして三毒を破っていく、こうした基本的なベースが前提で多元的多様性の富んだ仏教が存在するなら問題ないのです。
なぜなら最終的に三毒をスリーアウトしてしまえばよいのですから。
ただし律を辞めたり変更したらダメですね。
これらが壊れたらもはや仏教ですらないしブッダの説いた悟りに至る道が絶たれてしまうからです。
勝手に律を変えたり律を無くして新しく大乗菩薩戒とかやって根本から変えたらそれは仏教という宗教(スポーツ)とは別の宗教になってしまいますから..
クリケットとかキックベースを「野球」と言い続けるのは滑稽な感じがします。
またあまりにも変化球に囚われすぎてこんだけ曲がったとか落ちた(ボールが)とか変化したということを重要視したり豪速球を投げることに執着したりしても本末転倒です。
三毒をスリーアウトして輪廻から離れないといけないのに執着して渇愛を繰り返す、輪廻し続ける羽目になります。
だから多様性の中にも必ず外してはいけないものがある、なんでもかんでもOKは外道の始まりといえそうです。
さてそろそろ2千文字近くなりました(笑)のでそろそろ終わりましょう。
仏教の多様性は歴史であり長老やサンガ、在家の皆さんのおかげで生まれた信仰や修行の選択肢と捉えてもよいかもしれませんが、気をつけなければいけない事もあるかもしれない、というお話でした。

ではまたお会いいたしましょう。
トミボーディ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?