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【和訳】マーティン・スコセッシによる自身の映画の「仲間」リスト / Companion Films- a list of films by Martin Scorsese

2023年10月にマーティン・スコセッシ監督がLetterboxdアカウントを開設し「Companion Films」というリストを公開しました。このリストでは、スコセッシが監督した作品の「仲間」の役割を果たす59もの映画を選んでいます。全文を日本語に訳してみます。

私は複数の異なる作品を一つの特集にするという発想が大好きだ。私自身、二本立てや名画座での特集上映を観たり、閉業したお店を簡易な劇場にした場所 (storefront theatres)で夜に前衛映画を観たりしながら育ってきた。各作品が他の作品と対話をしているため、毎回何かしら学ぶことができ、新たな視点に立って観ることができるようになる。それぞれの作品の間で差が大きいほど良いのである。
何年にも渡って、私は自分の作品に影響を与えた他のさらに古い作品を挙げることをお願いされてきた。これらの依頼は映画祭関係者から来るものである。自分の作品と影響を受けた作品のペアリングを特集上映にするためだ。「インスピレーション」や「影響」という言葉は最も正確な表現ではない。私は他の作品を仲間として考える。ある時、映画同士の結び付きはインスピレーションに基づく。そしてある時は、登場人物同士の関係に基づいている。作品の精神性に基づくこともある。作品の精神性よりもずっと謎めいているときもある。
これは私の作品とその映画史上の仲間を紹介するリストである。

・『女相続人』(1949)
-『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)の仲間
これらの作品一つ一つが『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を準備している間、私にとって非常に重要だった。『女相続人』において、オリヴィア・デ・ハヴィランドとモンゴメリー・クリフトの関係はレオ(レオナルド)・ディカプリオ、リリー・グラッドストーンと私が参考したものだった。『末裔』は幼い頃に初めて観た。この作品が重要な理由として、実際にラコタ族の多くが主要な役で出ていたことや、先住民の悲劇をよく描くのにつながる珍しい視点があることが挙げられる。『The Lady of the Dugout』に関してはアウトローの生活を実にリアルに描いていること、現実的な設定であることに意義がある。『月下の銃声』はノワール西部劇であるが、この映画でのロバート・ミッチャムとロバート・プレストンの友情の決裂は『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』の中のレオとボブ(ロバート)・デ・ニーロの関係に近い。そして私の作品は、この作品におけるフレームの中の俳優たちの見え方と、ずっと脳裏を離れない、天井の低くて暗い酒場でのどこかおぼつかなくてみすぼらしい、振付がなされていなさそうな決闘とも結びついている。『赤い河』を選んだ理由はレオとボブの関係性を新しい角度から見ることに役立ったためである。『荒れ狂う河』の突出した映像美は私の作品にとって重要であった。モンゴメリー・クリフトとリー・レミックがフロントガラスに木が反射している車の中で情熱的なキスを交わす肝心な瞬間もポイントである。

-『女相続人』は『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』(1993)の仲間でもある
アメリカの歴史をどのように撮るかーこの映画の場合、19世紀末のニューヨークをどのように撮るか。我々の物語ではワイラーの代表作たちにあるような富、高価な所有物、上品で洗練された動きは牢獄となる。登場人物たちは物質的な裕福さに閉じ込められているのである。その意味では、ヴィスコンティの名作には直接的な影響を受けた。
しかし、我々は『女相続人』の感情面における残虐性も参考にした。ラルフ・リチャードソンが演じる父親にとっては、上流階級を乱さない限り、誰が誰に恋をしているのかは全く関係ない。上流階級と家系を汚されないことの方が、モンゴメリー・クリフト演じるモリスのような侵入者がオリヴィア・デ・ハヴィランド演じるキャサリンと結婚しようとするのを止める方が大切なのである。

・『末裔』(1914)
-『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)の仲間
『女相続人』の説明を参照

『The Lady of the Dugout』(1918)
-『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)の仲間
『女相続人』の説明を参照

・『月下の銃声』(1948)
-『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)の仲間
『女相続人』の説明を参照

・『赤い河』(1948)
-『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)の仲間
『女相続人』の説明を参照

・『荒れ狂う河』(1960)
-『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)の仲間
『女相続人』の説明を参照

・『赤い風車』(1962)
-『Personality Crisis: One Night Only』(2023)の仲間
デヴィッド・テデスキと私がデヴィッド・ヨハンセンのカフェ・カーライルでのキャバレー公演をどのように撮るかについて考え始めたとき、映画が発明される前の時代、19世紀のパリに戻ってみた。ル・シャ・ノワールでのアリスティード・ブリュアン、シャンソン・レアリストの伝統に。これらは特定の視覚的表現、とりわけブリュアンのことを描き、その世界の住人でもあったトゥールーズ=ロートレックの作品とつながっている。そのため、当然ロートレックを題材にしたジョン・ヒューストンの『赤い風車』を参照した。ヒューストンは撮影監督のオズワルド・モリスに「トゥールーズ=ロートレックが撮ったかのような、鮮やかでありながらやわらかく、くすんだ色合い」を求めたという。我々もその感じを追求した。エレン・キュラスは実に素晴らしくその感じを映像にしてみせた。
私はまたデヴィッド・ヨハンセンがルーツを持つニューヨークのアンダーグラウンド・シーンにも思いを馳せた。ジャック・スミス、アンディ・ウォーホル、ケン・ジェイコブズ、そして先駆者であるジョナス・メカスによる美しく、ぶっ飛んでいて、興奮するような実験的作品たちに。ジョナスは自身の心をそのまま映画にした。彼は前衛映画という名のもとで人びとを集め、大きくて美しい映画監督たちによる家族を作り上げた。ニューヨーク映画祭での『ミーン・ストリート』の上映後、私のホテルの部屋をノックする人がいた。それはジョナスと彼の弟アドルファスで、桃とシャンパンを持って私を家族に迎え入れてくれた。忘れられない瞬間である。

・『ジャッカルの日』(1973)
-『アイリッシュマン』(2019)の仲間
『アイリッシュマン』は『グッドフェローズ』と『カジノ』によく似ている映画でもあり、かなり異なってもいる。登場人物の感情、友情、裏切りが肝である。ゆっくりとした、避けることのできない展開が重要だったのである。『アイリッシュマン』に関連する三つの作品はかなり慎重で念入りに考えられた犯行の企て、二つの強盗と一つの暗殺未遂を含むもので、それぞれの犯行はすべてが落ち着いていて、意図的で終始静かである。暴力や裏切りさえも静かに起こる。『現金に手を出すな』に関しては音楽も自分の作品で使っている。

・『現金に手を出すな』(1954)
-『アイリッシュマン』(2019)の仲間
『ジャッカルの日』の説明を参照

・『男の争い』(1955)
-『アイリッシュマン』(2019)の仲間
『ジャッカルの日』の説明を参照

『クローズ・アップ』(1990)
-『ローリング・サンダー・レヴュー マーティン・スコセッシが描くボブ・ディラン伝説』(2019)の仲間
私がボブ・ディランを題材にしたのはこの作品が2回目である。『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』の続編になるのか。いや、それはつまらない。ではどうするのか。我々はボブ自身の視点から彼の人生と音楽を追い、何が現実で何がフィクションなのかが分からないような映画を作ることにした。そして私には良き参考作品として、イランの監督モフセン・マフマルバフになりすましていたホセイン・サブジアンについての旧友アッバス・キアロスタミによる、素晴らしい映画があった。
『クローズ・アップ』は直接的に孤独と、一つのコミュニティ・家族としての映画を扱っている。映画一本、あるいは何本もの映画を作るときにそうなるのだ。つまり、家族になるのである。これに私は心を動かされた。ホセインは孤独だったために監督になろうとしたのであり、彼がその一部になることを切望していた芸術家たちのコミュニティはまるで『ローリング・サンダー・レヴュー…』での旅する芸術家たちの一行のようである。彼らは最高の家族であり、最悪の家族でもあるが、家族であることには変わりない。『クローズ・アップ』はそれをよく表現している。

・『聖バンサン』(1947)
- 『沈黙ーサイレンスー』(2016)の仲間
人を追い詰めるほどの信仰的献身についての二つの作品、40年代の作品と最近の作品(『ルルドの泉で』)は『沈黙ーサイレンスー』の準備を始めるとき、頭にあった。

・『ルルドの泉で』(2009)
-『沈黙ーサイレンスー』(2016)の仲間
『聖バンサン』(1947)の説明を参照

・『La Prise de pouvoir par Louis XIV』(1966)
-『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス 50年の挑戦』(2014)の仲間
この映画を作ることができて光栄だった。しかし初めの方は、デヴィッド・テデスキと私はどうするか悩んだ。どのようにこれを映画として蘇らせるのかについて悩んだ。言葉と儀式についてのロッセリーニの素晴らしい映画は、我々に一種の導きの光を照らしてくれた。

・『成功の甘き香り』(1957) 
- 『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013)の仲間
富と権力に対する純粋な欲望は実に様々な形をとる。最高のアメリカ映画の一つであるこの作品では、我々は政界と交わる、冷酷なエンタメ業界と大手メディア業界の中にいる。トニー・カーティスとバート・ランカスターが演じる人物たちは力と略奪という言語しか話さないー彼らが知っているのはそれだけで、他には何もないのである。我々の映画のように。

・『河』(1951)
-『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』(2011)の仲間
またドキュメンタリーかって?いや、これはノンフィクションの要素とジョージ・ハリスンの音楽で作られた肖像である。彼の信仰心をも含んだ肖像である。
『河』は米の花と水を混ぜて描かれた模様であるランゴリを作っている女性たちの映像で始まる。この始まりは我々を映画に迎え入れると同時に、文化の美しさそのものに迎え入れてくれる。これはジョージが十年後に発見する美しさと同じものであり、彼の音楽に影響を与え、人生を変えたものでもある。映画を制作していたとき、あの美しさは常に私の頭の中にあった。

『ゆきゆきて、神軍』(1987)
-『Public Speaking』(2010)の仲間
作家、文化評論家、講演家であるフラン・レボウィッツに関しては、彼女をカメラの前に解き放ったらどうかと考えた。彼女は自由奔放で言いたいことをはっきりと言う。自然に言葉が出てきて、多くの場合真実を語っている。賛成はできないかもしれないが、本当のことを言っているのだ。これは原監督による奥崎謙三の捉え方と全く同じで、監督は第二次世界大戦で間違っていると思ったことを正そうとする彼をただ追うだけなのだ。フランの方がユーモアはある。

・『The Magic Box』(1951)
-『ヒューゴの不思議な発明』(2011)の仲間
『The Magic Box』は好きな映画の一つであり、映画がどのように作られるか、映画とは何か、特に残像効果とは何かについてこの作品から学んだ。この映画を観た後に私は小さな絵を描くようになった。架空の映画に出てくる「フレーム」を作ることを初めて試みたときであった。

『文なし横丁の人々』(1955)
-『ヒューゴの不思議な発明』(2011)の仲間
この作品から私は探し求めていたトーンの着想を得たー子どもが出ているためにすべてが際立っている、子どものための映画である(対象となる子どもといえば、この映画のいくつかのシーンに出てくる娘のフランチェスカも含まれた)。しかし『ヒューゴの不思議な発明』は映画の不思議、映画への熱中、そして拒まれることのつらさについての作品でもある。

・『キョ―ト・マイ・マザーズ・プレイス』(1991)
-『A Letter to Elia』(2010)の仲間
ケント・ジョーンズと私がこの映画に取り掛かったとき、初めは異なる方法でアプローチしようとしていた。インタビュー、カザンの人生全体、すべての映画から抜粋した映像を入れようとしていた。早い段階でよりシンプルで親密な、違う方法をとる必要があることに気づいた。このとき私は大島渚がBBCのために作ったこの映画の美しく静かな描写を思い浮かべた。

・『過去を逃れて』(1947)
-『シャッター・アイランド』(2009)の仲間
私は『シャッター・アイランド』の準備をしてもらうにあたって、レオに戦後の映画や、ノワールなどの作品をいくつか見せた。彼にとって最も印象的であったように思えたのはこの作品だったーこの作品のトーンや、出来事と映像のかっこいい展開の仕方、ロバート・ミッチャムのフレームの中での見え方など…この作品では、フラッシュバックの中で展開される過去そのものに何か謎めいたものがある。この作品を初めて観た6歳の私でさえもこう感じた…『バンビ』と二本立てで観たときにね!私にとって、この作品に始まり、中間、終わりというものは存在しないーどの時点から見始めても、毎回夢のような体験をすることができる。ある意味、この映画には形而上の層が存在する。なぜなら過去を一つの存在として、何らかの力として扱うからである。これは私が『シャッター・アイランド』を撮ったときに念頭に置いていたことである。

・『9 Variations on a Dance Theme』(1967)
-『ザ・ローリング・ストーンズ  シャイン・ア・ライト』(2008)の仲間
我々はコンサート映画以上のものを作りたかった。それにザ・ローリング・ストーンズを対象にしていため、アヴァンギャルドの世界が思い出されたーこの映画の純粋な動きの強調の仕方が思い出されたのである。

・『快楽殿の創造』(1954)
-『ザ・ローリング・ストーンズ  シャイン・ア・ライト』(2008)の仲間
アンガーの中の純粋で頽廃的な快楽をもたらす豪華絢爛な宮殿。

・『灰とダイヤモンド』(1958)
-『ディパーテッド』(2005)の仲間
自身の破壊につながる課題に直面する美しい英雄ーワイダの素晴らしい作品、そして私の好きな作品の一つが『ディパーテッド』の型を決めた。

・『真夏の夜のジャズ』(1959)
-『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』(2005)の仲間
バート・スターンの映画の雰囲気、つまりミュージシャンたちの間の連帯感、互いへの尊敬、共有された自由ーこれは『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』の重要な要素でもあった。

・『アポイントメント/悪魔の約束』(1981)
-『アビエイター』(2004)の仲間
エドガー・ライトが、私が『アビエイター』と『ウルフ・オブ・ウォールストリート』を撮った何年も後にリンゼイ・C・ヴィッカーズの傑作を薦めてきたが、両作品に共通している特徴があると気づいた。それは内側と外側に表れる強迫的な異常さ、非常に不安定な精神であった。

・『パーク・ロウ』(1952)
-『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)の仲間
私はサム(サミュエル)・フラーの映画に幼い頃強く影響を受けた。確かに演技と台詞は粗くて洗練されていない。そして確かに非常に低予算で、物語は低俗的である。しかし、フラーの作品の核心には純粋な映画が存在する。この作品は彼の最も古いものの一つであり、最も個人的で最高の映画である。この作品が持つ力を私は『ギャング・オブ・ニューヨーク』で実現しようとしていた。

・『奇跡』(1955)
-『救命士』(1999)の仲間
誰かのために何かをするとき、どこまでやるのか。このことが我々の作品と、ドライヤーとロッセリーニの素晴らしい作品の核心にある。

・『神の道化師、フランチェスコ』(1950)
-『救命士』(1999)の仲間
『奇跡』(1955)の説明を参照

・『盗馬賊』(1986)
-『クンドゥン』(1997)の仲間
私は『盗馬賊』が好きすぎて『At the Movies with Roger Ebert』のスペシャルエピソードで90年代最高の映画としてしまった…1986年に作られた映画なのに!

・『ひかり』(1987)
-『クンドゥン』(1997)の仲間
『盗馬賊』のように『ひかり』は私の好きな映画の一つで、両方とも信仰の面での葛藤を描いている。

・『ワイルドバンチ』(1969)
-『カジノ』(1995)の仲間
まず、スタイルの問題である。『グッドフェローズ』と『カジノ』にはペキンパーの作品のように、スクリーンから観客に向かって飛び出してくるような感じが欲しかった。我々はアウトローの世界にいるのだ。つまり傲慢で無法な、物を盗めばまた盗むような、殺すか殺されるかの世界に。『ワイルドバンチ』の男たちの間には道義が存在する。最後に彼らは友人のエンジェルを迎えに戻る必要があるが、そこは血の海になっていることも知っている。では『カジノ』の男たちはどうか。モブ・マフィアのボスが言うように「なぜ危険を冒すのか」ということだ。ある意味、彼らにも彼らなりの道義とシステムが存在する。それらは遠い昔のシチリア時代に由来する。しかし、ペキンパーの映画のアウトローとは異なり、モブ・マフィアのボスたちはその道義的精神によって称えられているわけではないー道義は彼らの間で共有されているに過ぎないのである。

・『山猫』(1963)
-『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』(1993)の仲間
アメリカの歴史をどのように撮るかーこの映画の場合、19世紀末のニューヨークをどのように撮るか。我々の物語では富、高価な所有物、上品で洗練された動きは牢獄となる。登場人物たちは物質的な裕福さに閉じ込められているのである。その意味では、ヴィスコンティの名作には直接的な影響を受けた。
しかし、我々は『女相続人』(『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』の仲間でもあるため、このリストの一番上にある)の感情面における残虐性も参考にした。ラルフ・リチャードソンが演じる父親にとっては、上流階級を乱さない限り、誰が誰に恋をしているのかは全く関係ない。上流階級と家系を汚されないことの方が、モンゴメリー・クリフト演じるモリスのような侵入者がオリヴィア・デ・ハヴィランド演じるキャサリンと結婚しようとするのを止める方が大切なのである。

・『狩人の夜』(1955)
-『ケープ・フィアー』(1991)の仲間
『ケープ・フィアー』に関しては、私はリメイクを作りたくはなかった。違った感覚、異なる重点を持つ作品を撮りたかった。チャールズ・ロートンの傑作にある善と悪の間での激しい葛藤、その凶暴性がモデルであった。

・『オーシャンと11人の仲間』(1960)
-『グッドフェローズ』(1990)の仲間
『オーシャンと11人の仲間』がもたらす感覚、ラット・パックの格式張っていない気楽さー子どものときはこのような感覚を当時の「犯罪」に関わっていた人びとから受けた。ニック(ニコラス)・ピレッジの小説『グッドフェローズ』でも同じ感覚を味わい、これを映画の中にも組み入れたかった。

・『突然炎のごとく』(1962)
-『グッドフェローズ』(1990)の仲間
トリュフォーが『突然炎のごとく』で、特にそのオープニングセクションでやったように『グッドフェローズ』では全方向から観客に向かってくるような、急で素早い動きをスクリーン上に組み入れたかった。

・『アッカトーネ』(1961)
-『最後の誘惑』(1988)の仲間
キリストの人生、キリストの実在ーその存在をどのように撮るのか。パゾリーニは二度撮っている。一回は文字通りキリストを、もう一回は最底辺にいる人びとについてのこの傑作を。『アッカトーネ』には当時も今も大きな影響を受けている。

『エヴァの匂い』(1962)
-『ニューヨーク・ストーリー』第1話 ライフ・レッスン (1989)の仲間
『エヴァの匂い』は『ライフ・レッスン』のように依存に関する物語である。芸術家の男性が半分恋人で半分ミューズである女性に夢中になる話だ。元々ジャン・リュック・ゴダールがこの作品を撮る予定だったが、ジョセフ・ロージーが二人の関係に気味悪く、容赦のない特性を加えた。この関係性は我々の作品とかなり近いものがある(映画は一時期ドストエフスキーの愛人であったポリーナ・スースロワの日記と、彼の小説『賭博者』に基づいている)。

・『うわさの名医』(1951)
-『Made in Milan』(1990)の仲間
ジョルジオ・アルマーニについて撮った映画『Made in Milan』を観た人は少ない。
またドキュメンタリーかって?私はジョルジオに影響を与えた映画、特にケーリー・グラントが出ている映画の上品さを求めていた。その中から例えば『汚名』や『北北西に進路を取れ』などを選ぶことはできただろう。しかし、私はとてもマイナーなジョセフ・L・マンキウィッツの映画を選んだ。

・『追い越し野郎』(1962)
-『ハスラー2』(1986)の仲間
途中で壊れてしまう「師匠」と無知な若者の関係性ーディノ・リージの傑作がモデルとなっている。

・『The Inside Story』(1948)
-『アフター・アワーズ』(1985)の仲間
20年代の道化芝居を起源とする二つの笑劇 (farce)、そしてバーモントの小さな宿を舞台にした喜劇俳優たちによる作品はすべてアラン・ドワンによって撮影され、凄まじく目まぐるしいペースで展開していく。ファルスの壮大な伝統は遥か昔のコンメディア・デッラルテにまで遡って存在するーこれらの作品と伝統は『アフター・アワーズ』にとって大事な試金石であった。出来事が主要な登場人物たちよりも速く動き、彼らは追いつこうと必死になるのである。

・『Getting Gertie's Garter』(1945)
-『アフター・アワーズ』(1985)の仲間
『The Inside Story』の説明を参照

・『Up in Mabel's Room』(1944)
-『アフター・アワーズ』(1985)の仲間
『The Inside Story』の説明を参照

・『白昼の情事』(1963) 
-『キング・オブ・コメディ』(1982)の仲間
私はコメディとコメディアン、ユーモアと完全な皮肉の間の微妙な差が大好きである。私は自分の映画にたくさんのコメディアンを起用してきた。アルバート・ブルックス、ドン・リックルズ、アラン・キング、サンドラ・バーンハード、キャサリン・オハラ、サシャ・バロン・コーヘン他、多くのコメディアンを。『白昼の情事』は喜劇ではないものの、皮肉にも面白い。すべての笑いが切実さと絶望の危うさの中にある。これが我々が追求しようとしていたトーンであった。すべての笑いが耐えがたいほどに不快なものでなければならなかった。心理的に恐怖を与えることの一種の研究である。

・『波止場』(1954)
-『レイジング・ブル』(1980)の仲間
『波止場』は『レイジング・ブル』の中心を成すジェイクと弟ジョーイの感情的な関係と直接的に関わっている。『悪の力』はもう一つ参考にした作品であったー両作品は私に一生残るほどの大きな影響を与えた。二つの作品から受けた影響は私の他の映画の中でも感じられることだろう。

・『悪の力』(1948)
-『レイジング・ブル』(1980)の仲間
『波止場』の説明を参照

・『ゲアトルーズ』(1964)
-『レイジング・ブル』(1980)の仲間
『ゲアトルーズ』でのフラッシュバックが作品の中の主要な出来事とは一味違うように、私は格闘シーンが他の出来事とは異なる印象を与えるようにしたかったーつまり、視覚的にも感情的にも全く違う次元に持っていかれるようなショックを与えるように。

・『若者のすべて』(1964)
-『レイジング・ブル』(1980)の仲間

・『ホフマン物語』(1951)
-『ラスト・ワルツ』(1978)の仲間
私は『ラスト・ワルツ』を「コンサート・ドキュメンタリー」にしたくなかった。「登場人物たち」が音楽を通して自身のことを語り、表現する映画だと感じられるようにしたかった。これはまさにマイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーが『ホフマン物語』で実現したことであるーダンス、色、音楽、顔、感情…つまり映画である。

・『ブルー・スカイ』(1946)
-『ニューヨーク・ニューヨーク』(1977)の仲間
『ブルー・スカイ』に関しては、ビング・クロスビーの役柄がボブ(デ・二―ロ)の演じるサクソフォン演奏者において目指していた方向性とかなり近かった。

・『The Man I Love』(1946)
-『ニューヨーク・ニューヨーク』(1977)の仲間
我々の映画のオープニング・クレジットではウォルシュの映画のオープニング・クレジットを複製し、色付けをした。

・『情欲の悪魔』(1955)
-『ニューヨーク・ニューヨーク』(1977)の仲間
ジェームズ・キャグニー演じるギャングスターとドリス・デイ演じる歌手の一筋縄ではいかない、苦しい関係を思い出していた。頑固な二人、我々の作品の場合は二人のミュージシャンが別々の方向へ進む。

・『抱擁』(1957)
-『American Boy: A Profile of Steven Prince』(1978)の仲間
『タクシードライバー』に武器商人として出演している旧友スティーブ(スティーブン)・プリンスが『Italianamerican』での私の両親と同じように自分の人生を語る。しかし、雰囲気は違っていた。スティーブの話はとても面白くて身の毛がよだつようなもので、自己破壊的で制限なく語られる。旧友のジョー・E・ルイスを演じるフランク・シナトラが出てくるこの作品が思い出されたのはそのためだ。彼らは自滅の手引きである。我々は『レイジング・ブル』での観客に向かってボブ・デ・二―ロにルイスの代名詞である乾杯の音頭「レースが始まるぞ (It's Post Time)」を再現させた。

・『契約殺人』(1958)
-『タクシードライバー』(1976)の仲間
この殺し屋についての低予算のインディペンデント映画はアナトール・リトヴァクの『旅』と二本立てで観た。『旅』を観に行ったのに帰るときにはこの作品のことを考えていた。(ヴィンセント・エドワーズ演じる)殺し屋の一つのことしか考えられない中身のなさと、彼の準備過程と行動における儀式的な性質…『タクシードライバー』を作ったとき、これが脳裏を離れず、すぐに思い出された。
ペリー・ボトキンの音楽、彼のギターの音からは非常に強い影響を受けた(ボトキン自身は『第三の男』のアントン・カラスのツィター音楽に影響されたと記憶している)。『ディパーテッド』のハワード・ショアによるタンゴギターのテーマはここから来ている。

・『Take Care of My Little Girl』(1951)
-『アリスの恋』(1974)の仲間
テクニカラーー本物の三本フィルムでインビビション法(IB・捺染方式)が用いられたテクニカラーーは素晴らしい方式である。今のフィルムやデジタルカメラを使って、同じような効果を再現するのは非常に難しい。立体感があり、鮮やかで溢れる色彩はすべてを際立たせていた。
40年代に作られた『Take Care of My Little Girl』は大学のキャンパスを舞台にしている。お母さんが昔入っていたソロリティ(女子学生クラブ)に参加する女の子の話である。物語にはアメリカの大学の白人コミュニティにおける奇妙なしきたりが含まれているが、全くかわいくも楽しくもない。この作品はソロリティやフラタニティ(男子学生クラブ)における制度や排他主義、そこにある残酷さを批判しているようであった。映画のタイトルもそこから来ている。つまり、価値観が覆されているような場所に子どもを送り出すつらさを扱っているのだ。あの時代にアイビーリーグのWASP(白人・アングロサクソン系・プロテスタント)のような世界を批判した映画が作られたことは興味深い。想定していないうちに冗談を抜いたような映画になり、テクニカラーは異様な、デイヴィッド・リンチのような雰囲気を醸し出す。

・『ジェイソンの肖像』(1967)
-『Italianamerican』(1974)の仲間
シャーリー・クラークの作品はフレームの中の出来事がすべてである。観客はカメラに向かって、自分の人生と夢の話をして、コメントを返し、カメラの後ろからは離れるこの男性とただ一緒にいる。人としての彼、彼の語り、彼の身振り手振り、彼の言動に集中している。『ジェイソンの肖像』はフィクションとドキュメンタリー、演技と振る舞いの境界を取り除いた。自由を与えてくれたのである。

・『革命前夜』(1964)
-『ミーン・ストリート』(1973)の仲間
ベルナルドのこの映画はー本当は二作目なのに、デビュー作のように感じられたー彼が育った芸術的/政治的環境を舞台にしている。それは私が育った環境とは少し違っていた。
それでも自分の生きた世界についてどう感じていたかを映画を通して表現したいと思う気持ち…それは大きなインスピレーションであった。

・『Guns Don't Argue』(1957)
-『明日に処刑を…』(1972)の仲間
『Guns Don't Argue』は純粋な理屈抜きのエクスプロイテ―ション映画であり、お金のために作られた究極のエクスプロイテ―ション映画ともいえる。しかし、非常に限られた手段の中から監督たちは本質だけを抽出し、一種の芸術を作り上げたー作品はアヴァンギャルドとしか呼びようがないミニマリズムと共鳴する。ゴダールが『勝手にしやがれ』をモノグラム・ピクチャーズに捧げた理由を思い出させる映画である。

・『アメリカの影』(1958)
-『ドアをノックするのは誰?』(1967)の仲間
『アメリカの影』は私にこう言った映画だった、言い訳せず今すぐ始めなさい、自分の映画を作りなさいと。作品の中で描かれているボヘミアンの世界は自分の世界とはかけ離れていたが、カサヴェテスの映画は真似されることを望んでいなかったー自分の経験から自分で映画を作るように鼓舞したかったのだ。映画を作るためには巨額のお金が必要で、規模が大きくなければならなくて、技法の面で完璧でなくてはならないという先入観を壊したー何か言いたいことがあるときに、何をしてでも言ったとしたら、それが最も大事なことなのである。『アメリカの影』は完全なインディペンデント映画である。これを観た後、私はすでに挑戦する準備ができていた。

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