見出し画像

メジロと花の蜜


 メジロの大好物は花の蜜。メジロの舌はくちばしよりも長い。蜜を吸いやすい構造になっている。流石だ。最近投稿した椿や梅の写真を撮っている時にも、そこにはいつもメジロがいた。花の写真を撮りに来たつもりが、いとも簡単に主役の座を奪われる。ヒヨドリも蜜が好きだが、警戒心が強く、人影を見るとすぐに遠くへ行ってしまう。その点メジロは蜜を吸うことに没頭してくれるので撮りやすい。先日、河津桜を見に行くと、そこでもやはり主役の座はメジロに取って奪われた。

寒緋桜と並んで早春に開花する河津桜は、大島桜と寒緋桜の自然交配種。静岡県加茂郡河津町で原木が発見されたことから、その土地の名が付けられた。1955年、河津町に住む飯田勝美氏が河津川沿いの雑草の中で1mほどの原木を偶然見つけ、庭先に植えたことから始まるとのこと。(Wikipedia)
早春に開花する早咲き種としては、染井吉野より色が濃く、花期も長い。今や全国的にも有名な品種となり、あちらこちらで咲いている姿を見かけるようになったのはご存知の通り。

福岡県豊前市にある静豊園せいほうえんも、福岡では河津桜の名所の一つ。ここは公園ではなく、ミカン栽培農家の農園である。春の開花時期だけ一般公開されている。
静豊園という名前の由来は、園主の故郷である静岡県の「静」と豊前市の「豊」から名付けられた。「静かで実り豊かな自然農園」という意味を込められている。園主が観賞用として故郷伊豆から苗木を取り寄せて植えたことに始まり、今では毎年約300本が大輪の花を咲かせるとのこと。

しかし園に到着してみると、ちらほらと咲き始めたばかりだった。ほとんどの木が蕾だけの状態。あと1~2週間で見頃といったところか。他にも十数人の来園者がいたが、その状況を見て、すぐに帰っていく人が多かった。
だが、もしかしてどこかに咲いているかもしれないと思い、山の斜面に拡がる農園の奥まで分け入っていく。するとミカンの木や、ミモザの花が満開の木が植栽されている中にひっそりと河津桜が、あった、あった。
遠くに海が見える高台に、一本だけ咲き誇っている木があるではないか。
早咲きの中の早咲き。300分の1だ。人間の場合は「神童」と呼ばれたりすることもあるから、この木は「神桜」とも呼ぶべき存在である。

しばしの間、神桜の傍らに佇む。メジロは一度飛び去ったが、すぐに戻ってきた。春の到来はメジロにとっても待ち遠しかったに違いない。花から花へと慌ただしく飛び回り、無我夢中に蜜を吸い続けている。一時もじっとしていることがない。


人もまた花をこよなく愛する。
公園や名所に行かなくても、近所の路地に咲く小さな草花の姿を見かけるだけでもほっこり嬉しくなる。花の蜜と言えば、子供の頃はみんなでよく校庭に咲くサルビアの花の蜜を吸って遊んだりしたものだ。
人は蜜を求めて花を探すことはないが、しかし何か蜜的とも言うべき神秘的な魅力を感じて、わざわざ花を見に出かけたりもするのではないか。

花の中のいったい何に惹かれるのだろう。
そのことに一番相応しい言葉は何だろうと思い巡らす。
姿形の美しさやかぐわしい香りの奥にはどんな秘密があるのだろう。

そこでふと思い浮かんだのは「サット・チット・アーナンダ」というサンスクリット語の言葉。ヨーガやアーユルヴェーダの理論の基となっている古代インド哲学「ヴェーダ」に書かれてある思想だ。

サット=真理、存在。
チット=意識、気づき。
アーナンダ=至福。

命とは、そして人間の本性とは、その三位一体であるとヴェーダは説く。
手に入れようとして、どれほど大金をはたいてもそれは買うことはできず、祈願しても成就されず、努力して勝ち取ることもできない。それは自らの内側に育むしかないものだ。今日の世界情勢にあっては、それは何やらお伽話のようなものになってしまった。
花もまた、鉢花や切り花、或いは種を買うことはできても、それを育てるには大地に委ね、長い時間をかけて待つしかない。
この世において、花はその三位一体を体現する稀有な存在だと思う。

もしかしたらメジロも花の中に「サット・チット・アーナンダ」を感じているのかもしれない。
花の蜜は秘められたその至福のエッセンス。
一心不乱に蜜を探し求める姿を見て、ふとそう思う。




福岡県豊前市 静豊園
































Víkingur Ólafsson
Mozart: V. Laudate Dominum omnes gentes





🐭🐮🐯🐰🐲🐍🐴🐑🐵🐔🐶🐗😽🐷🦝🦊🦁🐺🐸🐨🦧🐬