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煩瑣事から開放されると本当にクリエイティブになれるか?

AIを使って芥川賞を獲った人がいるそうだ。
達成感あるのかな?と思ったりする。
勿論、ここにはいろいろな嘘があるに違いない。AIというのがキャッチー(これ死語か?)なだけで、そうそうAIでなんて書けるものではない。それそこ人間の苦労と努力があったに違いないと思うのだ。
それでも、完成した達成感はあるだろうが、達成感とは自らの力の発露ではないのか?自らの足で大地を踏みしめて歩いた足跡ではないのか?
誰もが成し遂げている事でも、人間というのは成し遂げると達成感があるものだ。
新幹線や飛行機を使って遠くの土地に行く人もいるが、一方で徒歩や自転車で列島縦断なんていう人もいる。目的地に行く事だけが旅の目的ではないだろう。
ワープロが普及したことで、日本には長物書きが増えたように思う。それまでは原稿用紙と睨めっこだ。書けない漢字は辞書をひく。
タイプライターがある欧米に比べて、長物書きが少なかった一因になっていると思う。
その分、文章は雑になった感も否めない。推敲すれば同じだろうという話もあるが、やはり筆を滑らせて綴る文章とワープロには歴然とした違いがあると思ってしまう。
そういう私も、実をいうとこの文章を今、スマホで打っているのだが。
さて、少し脱線したが、便利な道具やサービスが用意された現代は、誰もが瑣末事から解放されてクリエイティブに生きられる筈なのだが、そうでもない。
自称物書きも増えたし発表の場も評価される場も増えた。絵描きも増えた。手作業は減ったが、成果物を作り上げるまでの手間と時間は格段に減ったわけだ。
それでも、やる人はやる。やらない人はやらない。
誰もが、好きな事だけに専念できる時代が到来したように思うが、実際にはそうでもない。
瑣末事は必要なのだ。何かを達成しようとする時、立ちはだかる問題の壁を創意工夫で切り開くのが「技術」ではなかったのか?
テクニックは個人のモノだがテクノロジーは社会のモノだ。
誰もが誰も到達し得なかった場所に行こうとするなら、テクノロジーを放棄しテクニックを磨かなければならないだろう。
だから瑣末事は瑣末事ではない。障害は障害ではない。
障害は個々人で異なるものだ。自分の眼の前の壁を乗り越えるのに、安易な手段を使うなら、達成感も奪われるだろう。


2024.2.8

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