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最善の教育政策は、現金給付かもしれない。

憲法26条は、我々の教育を受ける権利を保障している。しかし、これは学校に通う権利を指しているのではない。学校制度は、教育を受ける権利を保障する一手段であって、それ以外にも図書館を設置するとか、議論できる公益施設を設置するとかも当然含まれるわけである。

現金給付は、教育政策になり得る。

教育支援の方法として、学校制度を整えるよりもむしろ現金給付が良いのではないかという議論は昔からある。これは学校制度を悲観的に捉える人々によって主張されてきたものである。確かに、学校は変化の激しい社会で活躍できる人材などというものを育成しようとしているが、それを本当に政府主導である学校制度で果たすことができるのだろうか。換言すれば、仮に市場が求めている人材がいるとして、エリート官僚がどのような能力が必要かを見極めて、数年前からそれに向けたカリキュラムを完璧に設計することができるのだろうか。私は無理だと思う。古典派経済学ではこのような官僚主義的な政策決定をハーヴァイロードの前提と呼んで批判している。要は、エリートの言う通りにしていると市場はわからないものだから失敗するというものである。これらは極めてリタバリアニズム的発想でもある。

だから、こうした課題に対処するためには、文部科学省がカリキュラムを決定するのではなく、自由市場が勝手にカリキュラムを作り、市民が好きな教育課程を選べるようにする制度設計が提案されがちである。こうなれば、本当に必要な教育(この場合は訓練に近いのだが)は市場を通じて人気になるかもしれない。あくまで、これらは「人材育成」を目的とした時にどう制度設計すべきかという議論であって、教育を受ける権利の保障の方法論ではないのだが*、個人的には一理あるようにも思う。こうした市場原理を用いた人材育成を教育バウチャー制度と呼ぶ。

何を「教育」とみなすのか

教育政策の課題の一つに、私にとっては学習だが、政府にとっては学習ではないものがあることが挙げられる。例えば、マインクラフトをやることは少し前まで政府や社会にとって学習とは見なされてこなかったが、最近では学校で用いられるようになった。これと同じように、プログラミング教室に通うことは、誰かにとって学習だと思っていても、政府はそれにお金を出さない可能性が高い。プログラミングでなくとも、旅行に行く、投資する、デモする、ギャンブルする等々、一見政府にも、一般的にも学習とは思えないようなことであれ、本人にとってはこの上なく重要な学習だという場合だって存在する。学校制度を通づる教育支援では、これらをサポートできない。何を「教育」「学習」とみなすかは、政府に一任されてしまっているからである。現金給付による教育支援は、これを解決できる。

先に説明した教育バウチャー制度は、教育クーポンを配り、それを様々な教育機関や学習施設で使えるようにするという政策である。しかし、ここにも何を教育とみなすかという課題は残ってしまう。教育チケットを使える機関や施設を政府が特定する形をとってしまうからである。したがって、教育バウチャー制度にもどうしても限界がある。日本において、教育クーポンが国民から大バッシングされてきたここ数年を見れば、いかに使い勝手が悪いものかすぐにわかってもらえるだろう。そこで、私は現金型教育バウチャー制度が良いと思っている。要するに、教育費用として現金給付を行うというだけである。もちろん、課題もある。現金だから教育目的以外に使うこともできる。ただ、それが魅力でもあることを忘れたくはない。私個人や政府が学習だと思わないことは、その人にとって何より大切な学びになるのかもしれない。

※もう一つ、現金給付する場合は、親や保護者、世帯主の口座に振り込むことはやめるべきであろう。親は子どものために行動するとは必ずしも限らないし、子どもは現金を扱えないという思い込み=子供差別の思想が背後にあるようにも思う。学習者に直接支払わなければ、お金は誰にどのような使い方をされるかわからないからである。

おまけ〜人材育成のための教育版・ハイパー償却税制〜

政府による人材育成事業の推進の方法は、現金給付だけではない。人材育成に投資した費用を大幅に税額控除する方法もある。これは、教育に限らずに提案されていることだが、投資額の倍を使ったこととして経費計上できるハイパー償却税制を人材育成に適用するという方法だ。


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