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悩める経営者に告ぐ「孤独の中で“創造”はなし」家業倒産をバネに挑む「UPDATE LOCAL」

株式会社DERTA(デルタ)は、地方企業や地域に根ざした課題を「デザイン」「デジタル」そして、起業家・クリエイターが所属する「共創コミュニティ」の力で解決する会社です。
2022年に設立したDERTAには、3度の起業を経験した代表の坂井をはじめ、PM・UXデザインやマーケティング・SNS戦略など、さまざまな専門領域を持つメンバーが在籍しています。

今回は、新事業開発支援を中心に担当する春川さんにインタビュー。

高校を2つ中退。大検取得後大学卒業し事業再生のため家業を継ぐも失敗し倒産。その後、約10年もの間公益財団法人 新潟市産業振興財団(通称:新潟IPC財団)で、中小企業支援に携わり経営者と関係を築きつづけ、退職時のSNS投稿には数多くの新潟のビジネスパーソンから感謝と労いのコメントで溢れました。
そんな春川さんが、いまDERTAに参画した理由は「自分も地域もアップデートできると思ったから。」そう考えた理由、中小企業支援にかける強い想いを聞きました。

春川英広
新潟県柏崎市出身。家業倒産の失敗経験をもとに『中小企業支援』を職業にすることを決意。新潟 IPC 財団に 10 年間勤務し約 6,800 件の経営相談に対応。2023 年からはさらに踏み込んだ支援を実現すべく独立し86-Projects株式会社の代表取締役を務めながら、AlphaDrive/NewsPicks・DERTAなどに参画。


高校2つ中退。バイトに没頭するも将来の夢は「アトツギ」

ーーー 学生時代について教えてください。

子供のころは、お調子者と言われることが多かったですね。小さいころの写真は、たいていふざけたような顔が多いです(笑)驚かれることが多いのですが、実は高校を2つ中退しています。何かすごく悪いことをしたわけではないですよ(笑)ただ、不真面目でした。世代的にも多かったんじゃないかなあ。

ですので、10代はいわゆるフリーターとして過ごしました。わたしの出身は柏崎市なのですが、当時埼玉に姉がいました。新潟の高校を中退したわたしは、姉のアパートに居候させてもらいながら大宮駅前のカフェでアルバイトに没頭します。

そのお店が、おもしろくて。オーナーは別の事業をされている方で現場におらず、店舗運営は20代の店長という体制だったのですが、ある日店長が辞めてしまい。結局、残った10代のメンバーだけで90席くらいのカフェを運営することになってしまったんです。

みんなでメニューを考えて売上目標を達成するとか、楽しかったですよ。でも子供たちだけでは何もわからなくて。例えば、生ビールって炭酸ガスのボンベからガスを注入して提供するのですが、そのボンベを倒してしまったことがありました。みんな知識がないので「おい、これ爆発したりしてやばいんじゃないか?」って心配になって、店内のお客さん全員に避難してもらい大ごとになったこともありました(笑)

このカフェレストランに始まり、引越し、建築、イベント会場設営、商業施設の装飾など、とにかく楽しくて、夜勤も含め働きまくりました。世の中の裏側を知ることができ、裏方としてのやりがいなどを感じていたんだと思います。

その後、19歳で勉強を再開し千葉の大学の夜間部に入ることになります。当時お世話になっていた方から「大検(現:高卒認定試験)とって夜間大学で学んでみては?」と勧められたことがきっかけです(笑)

昼間は酒販卸の会社に勤務しながら、夜学校に通いました。今思うとよかったのが、夜間は働きながら通う学生が多く、なかでも実家が中小企業を経営している人が集まっていたんです。

実は、わたしの父もギフトショップの会社を経営していました。保育園の卒園アルバムの将来の夢の欄に「アトツギ」と書くくらい、家業を継ぐことは自然な流れのように思っていた。大学の友人とは「家業を継いだらどうしていこうか」と話せるほど、関心ごとも課題感も似ていて。今でも縁が続いている友人もいます。

入社後、すでに「下り坂」経営

ーーー その後の進路はどう決まったのでしょうか?

大学4年の時、卒業後の進路が決まります。父の入院がきっかけでした。当初は後を継ぐのはもう少し先かなと思っていましたが、一時的に学校を休み実家に帰宅。しばらく会社を手伝う中で、当時の社員さんとも相談した結果、大学卒業後すぐに入社することを決めました。

しかし、この頃からどんどん経営の雲行きが怪しくなっていくんです。個人向けに冠婚葬祭ギフトを扱う会社だったのですが、バブル崩壊や生活様式の変化でお中元やお歳暮をどんどん廃止したり質素にしていく時代に。需要が落ち込んでいく一方。加えて当時は、ネット通販も出てきたころ。割引合戦がはじまり、価格競争も激しくなっていきました。

わたしは、従業員として入社し、その5年後、取締役に就任します。その過程で、個人向けから企業向けのノベルティギフトの強化や大手式場チェーン店への新規開拓を進め、取引を拡大していきました。そもそも圧倒的に小規模な事業者なので売上は上がるんです。ですが、どうしても価格競争を避けることができず利益が圧迫され経営状況が悪化。

金融機関に再生支援をお願いすることになり、そのタイミングで代表に就任しました。入社して8年後くらのことですね。

社員数は一番多い時で8名ほどでしょうか。ギフトショップの店舗運営や営業などの職種だったので、ほぼ女性という構成でした。当時、人との接し方がわからず失敗もしました。ひとりよがりで、わかったように正しいことだけを言っても組織はうまく動かないんですよね。

社員が自発的に提案するのは難しいものです。顧客向けに新しい売り場づくりをしましょう、と言っても実際に担当する社員がのらないと何も動かないんだな。と痛感しました。困り果てたこの頃は、マニアみたいにいろんなセミナーに参加しましたよ。本もたくさん読んだ。そういう「外」に答えがあると思い込んでいたんですよね。

家業倒産→中小企業支援へ

ーーー そんな努力も報われず、倒産に至ってしまったんですよね。

必死に経営するも、金融機関から再生支援を受けて借入返済を止めてもらっている状態が続きました。自分から辞めますと言わない限り死なないんです。売上は維持しつつ利益が改善しない。この状況が一転したのが2011年3月11日、東日本大震災です。

この日を境に、企業ノベルティ、イベント、ブライダルなどあらゆる受注が軒並みキャンセルになります。国民全体が喪に服したタイミングです。ギフトショップなので当然ですよね。受注案件がゼロになった。柏崎に拠点を構えていたわたしの企業、発電所関連の受注もその影響が直撃しました。

その2ヶ月後、2011年5月に家業を畳むことを決めました。何年も覚悟していたとはいえ、悔しかったですよね。なんとか、再生したかった。

ーーー その後、なぜIPC財団へ入職されたのでしょうか?

廃業に至った原因は「事業転換できなかった」ことに尽きると思っているんです。

自身の経営者人生で、事業再生を実現できなかった。この反省から、会社を閉じたあと1年ほどフリーランスとして中小企業の支援をしました。知り合いの経営者から営業代行や事業計画の策定サポートなどの業務を請け負っていました。

そうこうしているうちに、たまたま新潟IPC財団(公益財団法人 新潟市産業振興財団)がプロジェクトマネージャーの公募をかけているのを見かけてエントリー。書類審査のあと、経営相談の実技、オリジナルセミナーなどの審査。かなり冷や汗をかきましたが、なんとか合格し倒産から1年半後の2012年10月に入職しました。中小企業も、素早く新規事業をつくる必要がある。この強い後悔があったので、そういった支援をしていきたいという気持ちでした。

倒産に至る前の5年間ほどは、金融機関とのやりとりを延々と繰り返していました。再生支援を受けるための交渉、再生計画の立案、実行、計画の練り直し、再交渉ー。くしくも、これらがIPC財団での業務で活きたんですよね。

ーーー 10年間で6800件もの起業支援や経営相談。なぜこの対応件数をこなせたのでしょうか?

IPC財団を利用する1社の平均利用回数が3回程度でしたので、事業者数では2,000程度になると思います。入社当時の財団全体の相談利用件数が年間500件ほど。退職するころには年間2,700件ほどに増えていました。

実は、入職試験として出題されたテーマが「IPCを行列ができる経営相談所にするにはどうすれば良いか?」というものだったんです。そのときの仮説をずっと推進してきた。ひとえに、中小企業の皆さんからご支持いただいたおかげですが、相談件数が増加した理由はいくつかあります。

一つは、メンバーがよかった点。バイトの話みたいですが、初期の頃は30代の財団職員や市役所職員が中心で。サークルのようなノリで、どんどん新しいことをしようよという雰囲気だったんです。毎年利用者数を伸ばし続けることができたと思います。

もう一つは、自身の経験です。中小企業経営の経験があり、セミナーマニアのようなところがあったので、利用者の気持ちに寄り添う提案ができたのかなと。経営者時代、公共系がやるセミナーはすっごいつまんないと思っていたんです(笑)いわゆる先生が登壇するお堅いセミナーを若い経営者が「よし聞くぞ」とはならないですよね。
なので、実際の若手経営者を呼んでみんなが知っているようなサービスの裏側を話してもらったり。ローカルのリアルな情報に入っていくようなセミナーを開催していきました。

相談件数が増加した理由。最後の一つは、必ず事業者さん側のペースに合わせたこと。役所って遅いじゃないですか(笑)初期対応もないまま、ただ数週間待たされることもザラにある。一方で、ビジネスにはスピードが必要でチャンスを逃してしまうことだってある。対応できないにしても何かしらリアクションすることは徹底していました。

「IPC財団はちょっと違うんじゃないか」と思ってもらったり、実際に「役所っぽくないね」と言ってくれる要因はこれだと思います。事務スタッフさんも同じように考え、実行してくれるから実現できていましたね。

そんなスタンスで数年やっていくうちに、若い経営者の活用が一気に増えました。これまでの思いが通じたようで、ただただ、嬉しかったですね。

ーーー 順調に成果を残されていたと思いますが、なぜ退職されたのでしょうか?

この10年間、ひたすら新規事業支援を進めてきましたが、IPC財団も成熟期を迎えていました。利用相談数も増加し、自身の役割は一定程度果たせたと感じていた頃でもあります。また、IPC財団は新潟市が運営する組織なので、新潟市内での支援活動しかできません。今後は、新潟県内全域、あるいは県外まで活動領域を広げたいと考え、退職に至りました。

DERTAの魅力は、イメージの具現化と人材の多様さ

ーーー その後ご自身でも法人を立ち上げ独立。引き合いも多かったと思いますが、なぜDERTAに参画されたのでしょうか?

DERTAが掲げる「UPDATE LOCAL」というミッションに強く共感しているからです。この言葉をはじめて聞いた時、自身が挑戦したかったことをこんなにシンプルに言語化できるんだ、と雷に打たれたような衝撃を受けました。

実は、DERTAは創業期からIPC財団の支援を受けてもらっており、ずっと交流はありました。その後2022年に、IPC財団が開催した次世代経営者のためのワークショッププログラム「Vision Quest」の企画運営で、再度ご一緒することに。そこでDERTAの仕事の進め方や考え方の「新しさ」に感動したんです。

「UPDATE LOCAL」の言語化もそうですけど、DERTAはイメージを具現化するのが上手いんですよね。おかげで企画段階からスムーズに進み、実際のイベントもとてもいい空間をつくれた感覚がありました。

IPC財団退職後、DERTA CEO坂井さんに誘われたことも大きいですが、DERTAと関わることで自分自身をアップデートできるんじゃないか、と考えたことがジョインの決め手です。

これまで、IPC財団でセミナーを刷新してきたつもりでした。でも、Vision QuestでDERTAとご一緒する中で、オンラインコミュニティの中でプロジェクトが進み、全く新しい形のワークショッププログラムを作り上げる様子を目の当たりに。「ローカルの前に自分自身のアップデートが必要だ」と確信したんです。言い方があれですが「もっと、教わりたいな」という気持ちがあります。

また、現在は自身の会社(86-Projects)のほか、DERTAを含む3つの会社に所属しています。このような働き方が受け入れられるカルチャーも、DERTAにジョインする理由のひとつですね。

ーーー DERTAでのご担当を教えてください。

今は、ものづくり補助金のプロジェクトと、sin DERTAや新規事業の企画、中小企業向けのプログラムやサービスの企画・営業などを担当しています。主にDERTAのサービスを中小企業と接続し「UPDATE LOCAL」を実現することが自身の役割だと思っていて。

地域の中小企業経営や中小企業支援の当事者として、リアルなニーズを捉えていきたいと考えます。DERTAのサービス設計でも、中小企業経営者が何を考えているのかが見えにくいのが課題になっていると感じていて。比較的わたしはその顧客の解像度が高いと思うので、そういったところで寄与していきたいなと思っています。

あとは、自治体支援の分野でも色々接続できると思うので提案していきたいですね。

DERTAのメンバーは、非常にお互いをリスペクトしているのを感じます。お互いがリスペクトし合っているのでネガティブなやり取りがない。本当にない。Slackでもミーティングでもポジティブな言葉しか交わされていない点も新鮮です。フルリモートなのに雰囲気が良くてすごいな、と思います。

加えて、とにかく多様なバックグラウンドを持つ方が所属しているところが特徴ですよね。それぞれの方がプロフェッショナル。地方中小企業はどうしても、同じ属性の人が固まってしまうことが多いんです。
一方DERTAは、新潟をはじめ東京・京都と住む場所がそもそも違ったり、子育て最中の方もいれば独身の方もいる。年代も20代から40代まで幅広く、バックグラウンドもばらばら。そんな多様なメンバーがそれぞれの立場で新潟をよりよくしたいという気持ちで課題意識やビジョンを共有し合っている。これは、いまの新潟に必要な組織と言えるでしょう。

危機。だから「変革」できる

ーーー いまDERTAが新潟に必要な理由をどう捉えていますか?

地方にとって、いま大事な転換点を迎えていると思っています。地方がこんなに注目される時代ってなかったので。危機的な状況にある一方で、変革のチャンスなんです。まさにアップデートが必要なタイミング。

こんな時に、地域の中から変革を推進する存在は重要です。この働きかけは「外」からではなく「内」から溢れることが大事。まさに、新潟に軸足をおくDERTAが担うべきだと感じています。

また、地方はどうしても人材不足が著しい。こういった地域で、挑戦者が成功するためには「コミュニティ」や「共創」が重要なキーワードだと考えています。その意味で、これらのキーワードを掲げるDERTAの重要度はさらに高まっていくでしょう。

ーーー 独立後同時に設立した86-Projectsについても教えてください。「86のプロジェクトをこなしたら解散」という姿勢はなぜでしょうか?

あくまでもシャレです(笑)解散を前提というより、引退までに86件くらいはプロジェクトを支援したいという想いを込めて名付けました。残りの職業人生を30年と設定すると、毎年平均 2.86 件のプロジェクト創出が必要ですね。「86」は「ハル」とも読めるので自身のラッキーナンバーでもあり、草野球の背番号などにも使っていた数字です。

個人的な想いとしては、家業の事業転換が遅れてしまったことに悔いが残っているんです。なので、中小企業が新たに挑戦することを応援したいなという気持ちが強いです。

中小企業経営って基本的に、一人。経営者は孤独に戦わなければいけないんですよね。なので「Projects」という言葉には「わたしも一緒にやりますよ」という想いも込められています。

「閉塞感のなかに、創造的な答えは見つからない」

ーーー 最後に、新潟で働く経営者やビジネスパーソンの方にメッセージをお願いします。

わたしは、家業の再生で苦しんだ時に「閉塞感のなかで必死に考えても創造的な答えは見つからない」ということを体感しています。セミナーに参加してみたり、本を読み漁ってみたり。ひとりで深刻に考えてドツボにハマることがありました。

反対に、IPC財団では同じ方向感をもった仲間とわいわい楽しく仕事を進めることで、想像を超えるような成果をあげられることも体感しました。チームでなら解決できることが結構あるんです。

経営者の皆さんとチームになって、課題解決をしていきたい。何か新たに「挑戦」や「創造」をしたい方、DERTAやDERTAのもつコミュニティが強力な仲間として実現をお手伝いできるかもしれません。ぜひ、こちらからお声がけください。