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雑記1038「夢のつづき」

あぁ、覚えてるもんだなぁ。
あれは小6の時だったか。
うん、そうだよ、たしか磯貝先生だった。


磯貝先生、なんらかのヒマそうな時間に、クラスの何人かの未来予想をしてた。
女子のひとりに「お前は車の免許すぐ取って乗ってそうだなー」って言ってたな。うん、その子ひとりぶんだけは覚えてる。
あとは「俺は俺はー?」「先生私はー?」なんて感じになってった。まぁ、なるよね。

その時のみんなの目の輝きをいまでも覚えている…わけないけど、いまこうやって書いてる時点で相当印象に残った一瞬だったんだろう。
端的に言えば、そう、幸せだったのだ。
たぶん、みんなも似たような心境だったんじゃないだろうか。いまにして思えばちょっとした天国のような空間だ。あんな空気はまたいつか来るんだろうか。

じゃあ、あの瞬間の6年4組のミニ天国の正体はどこにあったんだろうって考えた時に、そうなんだよ、大人になった時の自分なんだ、って気づくんだよ。

思えば、いつだって自分が天国の住人であることを自覚することはないのかもしれない。いつも天国は陽炎のようにどこかへ行ってしまう。
あー、いや、本当はそうじゃないのか。「少なくとも、ここではないどこかにある」という誰からも教えられてない思い込みが最初から強烈にあるからこそ、いつまで経っても自覚できないのかもしれない。

なんでなんだろ。
あー、これかも。未来のことばかりを考えさせられてきたからかも。いやいや、資本主義や成果主義や義務教育のせいにする気はないさ。そもそも、ヒトの中に、ってかヒトの中にだけある感覚なんだろう。
「這えば立て、立てば歩めの親心」というぐらいで、そもそも「期待」というものが人間にだけある。時間の概念がある生物の性なんだろう。
その習性が、人間を「いま・ここ」の中に生きさせない。

このへんはエックハルト・トール氏がやたら詳しい。詳しいってか、ホント腑に落ちてらっしゃる気がする。
誰もリアルにコップの水を飲んでいる者はいないという。いつも「なんのため、なんのため」。どの行動もすべて、次の行動のため。だから「私」はいつも、どこにも、いない。
このことは、人生を充実させようとして意味を考えすぎるオレにはなんともおぞましいジレンマだった。

とはいえ、あの時の6年4組のみんなが虚しい未来夢想者だと言いたいわけではない。糸井氏も言ってたように、
「いまを懸命に生きることはだいじ。それと矛盾せず、明日が必ず来ると当然のように思って生きることも、僕は素晴らしいと思っている」
ってのはおっしゃるとーーーりなんだよな。

スガシカオの言葉じゃないけど、あの頃の未来に僕らが立っていることだけは間違いないんだ。
理想の自分にはまるで手が届いてないような現在かもしれないけど、ここまで来れたことだけはたしかなんだよねぇ。


富士登山した時のことを思い出すなぁ。
あんなに憧れた富士山だったのに、登ってる最中はただの岩山で、いや、上のほうは地獄のような岩山で、その美しさがまったくわからなくなるんだ。で、戻ってくると、離れてみると、また憧れの山になる。

オレのカーナンバー、3776です。
あ、オカンも。




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【今週の過去分オリジナルソング】




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