戦後政治4

中曽根康弘は戦前内務省に入省し主計士官として志願.横須賀で終戦を迎えた中曽根は内務省に戻るがGHQによって解体され警視庁に配属される。この間、熱海の徳富蘇峰を訪ねて「対米従属という現実を十分に理解しつつ将来の対米自立へ向けて布石を打つ」というリアリズムの立場を確固とする。  

47年衆院選で芦田民主党から、出馬し当選。朝鮮戦争が、終わった53年に渡米しハーバード大学での、セミナーに参加する。そこで院生であったキッシンジャーと知り合う。 

このセミナーは米国が同盟国、従属国の若手政治家を集め将来の指導者として育てるプロジェクトであった。

当時のアイゼンハワー大統領は原子力の平和利用を表向けに原発ビジネスに着手していた。 
またウランの国際管理を、厳格化するためにIAEA(国際原子力機関)を設立。
中曽根は渡米中に原子力施設を見学すると奮起し日本に帰国後、原子力研究費の予算を可決させた。 イギリスから原子力を輸入し、
65年、日本初の原発の東海発電所が稼働。

初代原子力委員長、科学技術庁長官となったのは正力松太郎。
警察官僚の出身で中曽根の大先輩。
正力松太郎は虎ノ門事件で内務省を免官になり、倒産寸前の読売新聞を買収して社長となり立て直しに成功。
野球の普及にも努め、メジャーリーグ選抜チームを招聘。 初のプロ球団、東京巨人軍を、創設。 敗戦後は日本テレビを設立してプロ野球中継を、開始して、メディア王となる。
メディアの力を使い平和のための原子力を大々的に報道して原発導入の旗振り役となった。

日本社会党や朝日新聞などの反核勢力と、対抗するためにアメリカの意向で動いていた正力は後にCIAの、工作員であったことが判明している。  
自民党総裁に野心を持つ正力と初入閣を狙う中曽根との連絡役となったのが読売新聞の自民党番記者であった渡邉恒雄。 

70年佐藤内閣で防衛庁長官就任した年に三島由紀夫の、割腹自殺が起こる。 三島と同じ「自主憲法制定」の立場の中曽根であったが三島は徹底的に非難した。

中曽根は鳩山派主流の清和会とは別系統の鳩山派の河野一郎が起こした河野派を継承。

太平の死後鈴木善幸が後継者となるが明確な信念がない、鈴木はアメリカからの信頼を、失い2年で総辞職、アメリカの信頼回復のために中曽根が田中派に推され政権発足。
大蔵大臣には田中派の竹下登を起用。

田中が有罪判決を受けると衆院選で自民党は過半数割れして河野洋平らの新自由クラブとの連立を余儀なくされる。 

83年、 中曽根は訪米しレーガンの軍拡路線を、全面支持し米ソ有事の際には日本列島を不沈空母化すると発言してレーガンの信頼を得る。 この外交を支える外務大臣に起用されたのが岸信介の娘婿の安倍晋太郎であった。

岸信介も中曽根外交を高く評価していた。

中曽根は83年のサミットで「ソ連が東欧に中距離核ミサイルを配備したことに対抗する米軍の中距離ミサイルをNATO諸国に配備する」というレーガンとサッチャーに、賛同。 フランスと西ドイツは反対していた。

レーガンは中曽根の支持もありNATO諸国にパーシングを配備しゴルバチョフに核軍縮のテーブルにつかせた。87年に『中距離核戦力全廃条約』で欧州から中距離核兵器を撤去することで合意。 
中曽根の日米同盟強化に対して北朝鮮と対立していた韓国のチョンドウファンは日本を歓迎していた。慰安婦問題は次の盧泰愚政権から始まる。

また中国も、対ソで日米と協力関係(改革開放によって経済成長した反面貧富の格差による汚職や学生運動が盛んになった)にあり鄧小平のもとで共産党トップとなった胡耀邦は日本の防衛省力増強にも理解を示し83年に国会で演説も行なった。 
78年にA級戦犯が靖国に合祀され天皇の親拝は中止となったが歴代首相は参拝を続け問題視されなかった。
しかし85年に中曽根の靖国参拝に朝日新聞が批判キャンペーンを開始しそれに呼応する形で中国政府が靖国参拝中止を求めてくる。

中国の共産党保守派による日本を巻き込んだ胡耀邦降ろしのキャンペーンであり胡耀邦政権を延命さすために中曽根は参拝中止を決定した。

しかしその2年後に胡耀邦政権は崩壊し89年に胡耀邦が急死、その死を悼み民主化を要求する学生が天安門に集まり人民解放軍と衝突。天安門事件により中国は孤立。
孤立した中国は国をまとまるため江沢民政権は国民のナショナリズムを鼓舞し同じ方向を向かせるために反日教育を開始した。

中曽根は最終目標である憲法改正のために護憲派の野党第1党日本社会党に狙いを定める。
日本社会党の最大の支持母体は日本労働組合総評議会とその傘下の国鉄労働組合。

国鉄労働組合は共産党、社会党、革マル派、中核派が牛耳っており列車に赤旗をくくりつけ労働者の賃上げ改善をノロノロ運転などで要求し乗客は多大な損害を被っていた。 
中曽根はそうした国鉄(現JR)専売公社(現JT)電電公社(現NTT)の、民営化の、是非を問う衆参同日選挙において304議席確保し圧勝したが3分の2には届かず改憲は実現しなかった。

同時期にイギリスではサッチャーが労働党時代の国有企業の既得権益を破壊。
アメリカではフリードマンが小さな政府を目指す『新自由主義』を提唱しレーガンが採用。
従来のリベラル(社会自由主義)と対義の意味を持った。

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