学校では教えてくれない戦後政治③

田中は太平洋ベルトの発展の裏で取り残された日本海側を大規模な土木事業によって新潟の発展を実現しようとした。

池田内閣においては日本道路公団の設立や道路建設の財源にガソリン税をあてる道路特定財源制などを提案する。
佐藤内閣においても大臣を歴任し福田赳夫の対抗馬として存在感を、強める。

岸派の福田は国家財政の均衡を重視して税収の範囲内で公共投資、均衡財政による安定成長を掲げた。
一方佐藤派の田中は赤字国債を出してでも大規模な公共投資を、続けて高度成長を維持すべきという積極財政論が田中の主張であった。

佐藤派の2/3を掌握して独立して木曜クラブを立ち上げる。自民党総裁選で福田の同郷である中曽根康弘が田中側に寝返って田中が、勝利する。

田中内閣はアメリカの訪中後、中国との国交樹立交渉に臨む。

岸派の跡を継いだ福田派は台湾との友好関係を維持すべきと田中の中国接近を警戒する。

72年に日中共同声明
日本は中国こそが唯一の合法政府と認める。
台湾は中国の一部であると認める。
中国は日本に対する戦争賠償請求を放棄する。

毛沢東は「日本軍のおかげで共産党が権力をダッシュできた」と発言。

当時の中国は文化的大革命で経済が疲弊していたため日本からの投資を呼び込むため戦争問題を早く終わらせたかった。

田中はアメリカを全く信用しておらず中ソとの関係改善を目指した。
第四次中東戦争によるオイルショックで世界的インフレ現象になった際にはアメリカを排除した資源協定の締結の交渉に乗り出した。

しかし滞在中のインドネシアで急に反日暴動が発生して日本企業や日本車が攻撃される。
当時の大統領は親米派のスハルト大統領。
田中の資源外交を、妨害するためにCIAが企てたクーデターの可能性が高い。

ニクソン政権のキッシンジャー補佐官は田中をよく思っておらず対米従属派の福田を推していた。

キッシンジャーはナチス政権下のドイツからアメリカに亡命したユダヤ人でニクソン訪中を実現させた。

1974年、田中が土地転がしを、していたとして欧米メディアが速報、支持率急落、
内閣総辞職に追い込まれた。
総裁は弱小派閥の三木武夫に決まる。

田中はなおも最大派閥の田中派の親分であり幅を利かせていた。 田中の強さの秘密は公共事業融資で得た企業献金と反米ナショナリズムであった。

1976年ロッキード事件によって政治生命を絶たれ、93年、田中の死とともに裁判は打ち切られた。

ロッキード事件は田中をよく思っていなかったキッシンジャーがロッキード社と手を組み起こした政治的謀略の可能性が高い。 
有罪判決を、受けた田中は影響力が衰え、田中派の金庫番であった竹下登が85年に後の経世会を立ち上げた。
田中の意思は田中眞紀子、小沢一郎に受け継がれる。

76年、三木武夫は、アメリカと組み田中を逮捕させたとのことで自民党内からの怒りを買い、衆院選に敗北して総辞職。

岸派(清和会)の福田赳夫と池田派(宏池会)太平正芳 の大福密約が、成立。

福田を総裁 太平を幹事長として2年で禅譲する内容であった。

福田主将の時に日中平和友好条約を、結ぶ。
アメリカは妨害せず。
しかし中国は、尖閣への領海侵犯を、繰り返していたが福田は抗議もせず、棚上げし それが今も尖閣問題を引きずってしまっている要因の一つである、
日本赤軍のハイジャック事件にあいてもハイジャック犯の言う通りに身代金16億円と赤軍メンバーの釈放を行い非難を浴びた。

福田は太平に禅譲せず続投しようとしたため
田中は太平を支援して内閣の倒閣は図った

最大派閥の田中派がどちらにつくかで政権は決まり福田は総裁選で大敗し78年太平正芳が総裁となる。、
太平はアメリカは初めて同盟国と呼び日本を西側陣営と位置づけた。
ソ連を囲い込むために中国との連携を強め、ODAによる総計6兆円(小泉内閣まで)を援助した。

太平は79年の衆院選で自民党が敗れ福田派による裏切りで不信任決議を受けたため解散総選挙に打ってでますが選挙期間中に死亡。

太平の側近で田中とも近かった鈴木善幸が後継者となる。
鈴木は教科書に近隣諸国条項を加え歴史認識問題の発端をつくった。、

鈴木のあとは中曽根康弘。 


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