太平洋問題評議会

太平洋問題評議会(IPR) アメリカに本部を置く国際共産主義の牙城 

コミンテルンは大3回大会において「統一戦線」「植民地の解放」を掲げ社会民主主義勢力と、協調し民族主義運動を支援。 アジアを共産化する上で日本への工作が焦点となり工作活動が活発になる。 1920年コミンテルン極東書記局がシベリアにできて1921年中国共産党、1922年日本共産党が結成。 この動向の上にIPRが位置する。

IPRは排日移民問題による日米関係から悪化の緩和が設立の直接的な動機。 1925年にホノルル会議を開催し正式にIPR設立。 2年おきに太平洋会議と呼ばれる国際会議が欧米アジアで開催。 当初からの参加国であるアメリカ 日本 中華民国 カナダ オーストラリア ニュージーランド 各国は国際的な世論コントロールを期待して各国支部を通じて財政支援をしていく。 日本も外務省のほか南満鉄も資金支援をしている。 

日本支部には 渋沢栄一、井上準之助 新渡戸稲造などが名前を連ねる。 新渡戸稲造は日本の満州進出について国際社会での理解を得ることの必要性を認識しており新渡戸は支那にいるアメリカ人宣教師や在米支那人の反日宣伝工作に対抗するためにIPRでの活動を重視していた。

アメリカ支部ではジョンDロックフェラー1世、ロックフェラー財団などから多額の拠出を受けながらその指示の下で政治問題を取り上げる。IPRの主導権はハワイグループからアメリカIPRに移っていく。 

ロックフェラーに近いIPRのエドワードカーターが国際事務局長に就任し ルーズベルトの干渉主義の先兵として活動。 ルーズベルトの下、抗日を支援し日本に経済制裁を加えることを、政策目標とした。 その結果IPRは日本の対支那政策を批判し日本を抑止する政治団体様に変貌。カーターの下でIPRはソビエト寄りとなり国際共産主義者たちを大勢の取り込む。

オーエンラティモア

支那学者でIPRに参加後日本を批判して中共に好意的な記事を書く。 蒋介石の顧問となりアメリカの対中政策に関わる。

トーマスビッソン  

中国で宣教師をしながら反日を強める。 アメリカに帰国後中共を熱烈に支持する論文を次々と発表。 毛沢東やアグネススメドレーと延安で会談。 共産党との関わりを疑われるがそれをかわした後はIPRの中核メンバーとなる。 戦後近衛文麿を尋問し憲法改正、財閥解体、農地改革の推進に関与。

ハーバートノーマン

日本生まれ共産主義者、風見章と家族絡みの付き合い。 ケンブリッジ大学に入学しイギリス共産党に入党。 日本語堪能なアジア通としてソビエト諜報部のスパイス工作員となる。

ギュンターシュタイン   

イギリス フィナンシャルニュースの記者 ゾルゲ諜報団の協力者。尾崎秀実の同志。上海においてもゾルゲと共に対日工作していたコミンテルン工作員。 近衛文麿の秘書、牛場友彦は部下。



戦後IPRは マッカーシーによるレッドパージの標的なり上記のメンバーは攻撃される。FBIもIPRを捜査しアメリカ政府とIPRを分断。 

ロックス財団も 赤狩りを背景に1952年支援を終了し 1961年IPRは解散する。



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