学科では教わらない共産主義 1


第二次世界大戦以降中国共産党によって滅ぼされた国 

満州国 、 東トルキスタン(ウイグル) 、    チベット 。

モンゴルは国土の半分を中国に奪われた。

日本ももちろんその一つになる予定であった。

日清戦争勝利後 日本に中国人留学生が増え、日露戦争を勝利するとさらに数は増える。 日本も大亜細亜主義を掲げて中国を民主国家にすることで、欧米列強に立ち向かう信念を抱いていたため中国人留学生のための学校を設立、名門大学も留学生を受け入れて支援していた。

日露戦争後、日本では社会主義が流行。その背景は戦争勝利によって得た賠償金で工業化を進めるが都市労働者の環境が悪化していくにつれ労働組合ができたことであった。 堺利彦がエンゲルスの「空想から科学へ」を翻訳し 労働者たちもマルクス主義に同調していく。その結果当時の日本のアカデミズムでは社会主義を勉強していく風潮ができあがる。

辛亥革命後 第二次日本留学が起こり中国人留学生が増加。 彼らは日本でマルクス主義を学びその彼らが上海で1915年新文化運動を起こす。リーダーの陳独秀は後の中国共産党のトップになる。

1917年ロシア革命が起こりレーニンのもとコミンテルン(第三次インターナショナル)設立。 コミンテルンは、共産革命によって弾圧された亜細亜諸民族を助けると声明。 欧米諸国に弾圧されていた国々は同調する。 

陳独秀が中国共産党設立 堺利彦はコミンテルンの要請で共闘民族大会に出席し日本共産党設立。 

 コミンテルン→中国共産党→日本共産党という指揮命令系統及び資金の流れ。

1924年第一次国共合作。 国民党の孫文と中共が手を結ぶ。国民党の資金で留学した中国人留学生は左傾化していく。 日本の大学も左傾化していく。

1928年 中国共産党日本特別支部の結成

明治大学支部 東亜予備校支部 横浜支部 神戸支部 京都支部など計11支部。 党員のほとんどは各大学にいる中国人留学生。

1929年 大恐慌 ブラックチューズデイ。 フーバー大統領はデフレ下の中、財政均衡政策をとり世界各国の恐慌を悪化させた。その結果、自由主義 資本主義の否定、世界的に社会主義が台頭する。 日本もデフレの波が押し寄せた。金融緩和を主張するものは否定され。当時、経済学の権威であった京都大学教授の河上肇は 「金融緩和は効果がなく、恐慌は資本主義では不可避であり根本的に治癒するには、共産主義的な体制への転換が必要である。」という清算主義的な立場であった。 

この結果デフレ下でのデフレ政策が進み日本は失業率増加、 日本でも資本主義が否定され社会主義に傾く。その流れでの515事件.226事件。

 河上肇は中国共産党日本特別支部のブレーンであった。1928年京都大学をクビなったあとは日本共産党に入党する。

日本のアカデミズムは社会主義、共産主義が蔓延。 メディアもその一因を担ぎ改造社は出版部の中枢が、共産主義者で固められ左翼的基礎が確立。 

1937年日中戦争勃発し 改造社は「日支事変は日本の帝国主義戦略である。将来中共が支那大陸の共産主義革命を実現するすることは必至なので中共を援助しなければいけない」と結論。

日本の大手メディアがこの頃中国共産党に牛耳られていた。  、、、、、


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