学校で教えてくれない戦後政治②

戦後政治2

吉田茂は外務官僚出身で自民党での仲間が少なかった。 そこで各省庁官僚や都道府県知事に声をかけて、政策チームをつくる。
チームは吉田学校と呼ばれ、池田勇人、佐藤栄作などを輩出。

池田は大蔵省出身で敗戦後に吉田茂に声をかけられて吉田学校へ入る。
吉田内閣の経済ブレーンとして働く。
GHQ下の日本でハイパーインフレなのにもかかわらず、GHQの命令でデフレ対策を施行。

住宅金融公庫の創設。大蔵省資金運用部の創設。通産省の発足。ニューディール型の修正資本主義である。
民間経済が弱いときには大きな政府を有効な経済政策である。

50年の朝鮮戦争でアメリカはMSA協定により同盟国への経済援助を通じて軍事費増大を支援。 
日本に対して禁止したはずの再軍備を要求。
池田はアメリカの余剰農産物を援助品として受け取りそれを転売した資金で保安隊を増強し自衛隊が発足。 


この協定によりアメリカの余剰農産物が日本に大量にに送られ小麦、脱脂粉乳は学校給食で配給された。 日本にパンが普及し日本の小麦農家は壊滅した。

また池田はアメリカと 「教育と広報によって日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するように第一の責任をもつ」ことで合意。
日本教職員組合(日教組)が、社会党と連携して行った「教え子を再び戦場に送るな」キャンペーンの影響を排除するため教育委員会は任命制になり、学習指導要領に国旗、国家が、明記された。1958年。

また反吉田派であり、鳩山一郎の後継者である岸信介が首相になった時に池田は蔵相から外され、 さらに岸の弟である佐藤に岸が禅譲した場合、冷や飯を食わされると考えた池田は 自ら派閥を立ち上げ「宏池会」とした。 

吉田学校は池田の宏池会と佐藤派に分裂した。 池田は吉田自由党直系という意味で「保守本流」を自称した。

総裁選の結果、岸の後総裁になった池田は首相に就任し所得倍増計画と東京五輪成功を掲げて自民党は衆院選に圧勝する。
安保反対デモも鎮静化していく。

太平洋ベルトに工業地帯建設。
農業の、機械化。
国民皆保険、国民皆年金制度。などにより国民は安定した生活を手に入れ貧困から脱出した。一方で公害や食料自給率の低下も招いた。

池田は東京五輪の閉会式で退陣表明を、行い
佐藤を後継者に指名した。

池田は64年にジョンソン大統領との会談でアメリカの核の傘を日本に使うと言及させた。

佐藤は日韓基本条約、非核三原則提唱、沖縄返還 の業績を残し辞任。

その、1ヶ月前 佐藤派の田中角栄が木曜クラブと称して田中派を立ち上げ、佐藤が後継指名するつりであった(兄の岸の派閥である)福田赳夫に反旗を翻して、
角福戦争が、勃発する。

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