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ウィトゲンシュタインがデカルトを論破

 中村昇『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』(亜紀書房)を読む。

 ウィトゲンシュタインが、デカルトの「方法的懐疑」をやり込めるところが、おもしろかった。
 デカルトってのは、「すべてのことを疑うぞ」って、無理やり何でもかんでも疑い始めたのね。でも、こうやって疑っている私のことだけは疑えないなあ、ってことで「われ思う、ゆえにわれ在り」ってことを発明した。
 ところが、ウィトゲンシュタインは、これは間違っているっていうわけだね。
 この本はわかりやすく書かれているんだけど、俺がさらにわかりやすく書き直してみるね。
 デカちんと、ウィトちんの会話。

デカちん「まずは、自分の外側にある世界のことを疑うよ。目の前にボールペンがあれば、ボールペンが見えるよね。でもさ、じつはそれ、万年筆だったの。そういう錯覚って他にもあるでしょ。見えるもの、聞こえるものだからといって確実じゃないよね。だから外側の世界って確実じゃないよね」

ウィトちん「でもさあ、ボールペンだと思ったら万年筆だった、って錯覚するためには、ボールペンと万年筆を知ってないとダメだよね。万年筆を知らない人は、錯覚にも気づかないよ。

 でしょ? つまり、錯覚が成り立つためには、その前に正しい知覚が必要ってこと。だから、錯覚があるからといって、正しい感覚まで否定するのはおかしいよ」

デカちん「ぎゃふん」


デカちん「じゃあ今度は、自分の内側にある感覚のことを疑うよ。いま自分がイスに座ってて、スマホが目の前にあるよね、自分には手があって、スマホを触った。この感覚って確実なことかな?
 でもさ、眠ると夢を見るでしょ。夢の中ではもっと変な経験をするでしょ。空を飛んだり、体がグニャグニャになったり、クジラに食べられたり。目が覚めたとたん、アッ夢だったのかって思うよね。これも錯覚みたいなもの。だから、自分の感覚って信用できないよね」

ウィトちん「でもさあ、夢が夢であるためには、目が覚めている状態がなければならないよね。夢がずっと続いて死ぬまで目覚めなかったら、それは夢ではなく現実だよね。

 覚めない夢は、現実そのものだ。目覚めた状態の自分があるから、夢を夢だとわかるんだよ。だから、夢を理由に、現実を否定するのはおかしいよ」

デカちん「ぎゃふん」


デカちん「ちっくしょー、それなら最後に、数学を疑うよ。3+4は、誰が計算しても7になるから確実っぽいよね。

 でもさ、もしも世界に悪霊がいてね、そいつは人間が3+4を計算するたびに、本当の答えは5なのに、かならず7とまちがえるように魔法をかけているんだ。そうなったらお手上げだね、数学だって確実じゃないよ」

ウィトちん「計算まちがいが成り立つのは、正しい答えがあるからだよ。誰も本当の答えが5だと知らなければ、7が本当の答えになるだけだよ。これもさっきと同じこと。

 もしも、まちがいだらけの世界があるなら、その背後には必ず、正しい世界があるんだよ。目覚めがなければ夢は存在しない。正しい知覚がなければ、錯覚は存在しないってことさ」

デカちん「ぎゃふん」

 こうしてウィトゲンシュタインはデカルトを論破したわけだ。それでもデカルトは偉大で、そのおかげで近代社会ができたのだ。

 けれども、もしウィトゲンシュタインがデカルトと同じ時代に生きてたら、近代ってどうなってたのだろう。

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