【禍話リライト】 となりの人
壁一枚を隔てて隣あっているような、アパートやマンションのお隣同士というのは微妙な距離感です。一軒家のお隣さんとはまたちょっと違う。
部屋の防音次第では音を出すのに互いに気を使ったりなんかしてね。それでお互いに気を使い合えるからこそ「となりの人はまともなんだ」と多少は信用しても大丈夫かなとなっていく。
ところが世の中どうしても、まともな隣人ばかりとは限りません。
────────────────────
この体験をした社会人のSくん。まだ若くて、めっちゃいい奴なんです。いわゆる好青年。人当たりがよくて老若男女、誰からも好かれるような人間でして。職場でも上手いことやって、社会の荒波を乗りこなしていました。
ただ就職を機に引っ越してきたマンションでトラブルになることがあったんですね。隣の住人のことで。
引っ越し当日、義理堅く彼は隣の人に挨拶をしに行ったそうなんですよ。Sくんの部屋は建物の端にあるので、彼にとってのお隣さんは一部屋だけ。
「すみません、隣に越してきた者ですけどー」
チャイムを鳴らしてそうドアの前で挨拶をしても、一向に応対に出てきてくれる気配がない。ただし玄関ドアの覗き穴から見られている感覚はする。そういうのってわかりますよね。妙な緊張感というか。
じいっとドア越しに見られていたはずだって彼言うんです。でも何分待っても隣人の出てくる気配はない。
結局、「また後日伺いますー」と半ば独り言みたいな感じで言って、ドアの前から立ち去ったそうです。それ以降何度か伺っても居留守を使われて。生活のリズムが彼と全然違うのか部屋の出入りのタイミングも合わなくて、とうとう挨拶をするのも諦めたのだそうです。
そんなある日のこと。ふと気がついたそうですが、その隣の部屋と接している壁から物音がするようになったんですって。結構頻繁に。
生活音なのかテレビや動画を見ている音なのか。くぐもっていて何の音だかわからないけれど、しきりに音がする。
そのマンションにはSくんの知り合いもたまたま住んでいまして。聞いてみたんですって。
「このマンション、結構壁薄いんですかね」
って。
「いやあ、防音がしっかりしてるマンションのはずだよ?」
ところがそう返ってきました。よっぽどの大音量とかならともかく、普通に生活している分には隣人の生活音は全くと言っていいほど聞こえてこない造りのはずだと。
それなら何の音なんだろうと。何している人なんだろうと。Sくんは壁の向こうから物音がするたびに首をひねっていたわけです。
そんなある日の夜のこと。Sくんと先程の人とでマンションそばの遊歩道を並んで歩いていた時のことです。
「まだ隣から物音続いてるの?」
「そうなんですよ。本当、何している人なんだろうって不思議で」
「お隣さん女性らしいんでしょ? だったらきみに惚れちゃって、覗き見しようと頑張って壁に穴開けでもしてるんじゃないの?」
「いや-、冗談やめてくださいよ」
ふと、二人同時にマンションを見上げたそうですね。その時Sくんは部屋の明かりを点けたままでしたから、カーテン越しに明かりがぼんやりと漏れていて。それで、妙な人影がベランダあたりにあることに気がついた。
「お、おい、アレ」
問題の隣人の部屋は真っ暗なんです。ただ、その部屋のベランダから防火扉越しに身を乗り出して、Sくんの部屋の中を見ている女がいる。黒髪の女が上半身をぐうっと伸ばし髪はだらんと宙に垂らして、Sくんの部屋を覗いているのが見えたんですって。
「うわっ」「やばいよアレ」
Sくんの知らない所で今までもこうやって覗かれていたのかもしれない。なんだか執念を感じる覗き方だったそうです。
その時のSくん、驚愕して「どうしよう、どうしよう」と若干パニックになっていたそうなんです。警察? まずはマンションの管理人? みたいな。一方でその横で知り合いは修羅場に慣れているのか結構落ち着いていて。
「これ、事件だよ事件。警察沙汰にするかはともかく、一度直接、きちんと『やめろ』と言っておくべきだよ」
とかなんとかそう言って、困惑するSくんを連れてマンションに駆け足で戻ると隣人の部屋のドアの前までまっすぐ向かったそうです。
それで部屋の前に到着すると、俺が行くから見とけよ、という感じで「すみませーん」と言いながらチャイムを連打して鳴らしたんですね。ところが相変わらず隣人は出てこない。でもさっきまで部屋の中というかベランダにいたのは見ているわけですから。ここまでに誰かとすれ違ってもいない。
「すみませーん、隣の者の友人なんですけどー」
そう言いながらドアノブに手を伸ばすと、難なく回って玄関が開いた。
それで知り合いは「入らせてもらいますよー」と言うとSくんを玄関先に置いて真っ暗な部屋の中に入っていったんです。そして知り合いは部屋の明かりを点けたんでしょうね。ぱっと部屋が明るくなると同時に、「うわっ」という息をつまらせたような悲鳴が中から聞こえてきたそうです。
「おいS、S。警察呼んで」
玄関先に佇んでいたSくんにそう言うわけです。
「いやでも警察を呼んだら無駄に騒ぎになりますし……」
「ああいや、そういうことじゃないんだ。やべーわこれ。死んでる」
「は?」
「首、吊って死んでる」
それでSくんは慌てて警察を呼んだそうです。マンションの中はちょっとした騒動になった。
当初Sくんは、自分らがチャイムを連打したせいで女をパニックにさせて精神的に追い込んでしまい自殺させてしまったと思い込んでいたそうです。でも違った。
その女性、何日も前に死んでいたそうです。首も伸び切るほどに。
「いや~~昨夜は大変でしたね」
翌日のこと。Sくんは自分の部屋で警察官に発見に至るまでの事情を改めて説明しまして。隣の壁からずっと物音がしていたとか、自分の部屋を覗き込んでいた人影を見たとかも、もちろん全部。
「まあでも事件性はない、自殺でしょう」
警察官はそう言ってふっと隣人の部屋と隔ててる壁を指しまして。
「向こう側の壁ね、汚れていたんですよ」
そう言うんですね。警察官曰く向こうの壁は人の背丈ほどの高さの範囲で薄汚れていたそうです。爪で引っ掻いたような、細かい傷もあって。
「推測ですけどおそらく」
警察官はパントマイムのように耳を当てて壁にへばりつくようなポーズをしてみせまして。
「こんな感じで、Sさんの部屋に聞き耳を立てていたのではないかと。身体をびっちりこすりつけながら。あの汚れ、汗とか皮脂とかからくる汚れのようなんですね」
つまりSくんが聞いていた物音というのは、どうやらその女が大声で喚いていたのが、防音の良さでまるで生活音か何かのようにくぐもって聞こえていたのではないかと。そう言われたそうです。
わざわざそんなこと言わなくてもいいじゃないか! と後になってSくんは少し憤慨したそうですけど。
ただ結局、彼らが目撃した、Sくんの部屋を覗き込んでいた女は誰かという問題だけはわからず仕舞いだったそうですね。遠目に見ただけとはいえ、見た目は完全に首を吊って死んでいた女性と一致したそうなんですよ。でもどこの誰だかわかりやしない。
その女が正体不明で不気味というのもあるし、自分のストーカーのようになった女が自殺した部屋の隣とか、住み続けたくないじゃないですか。
それでSくんは心機一転、社員寮に住居を移したのだそうです。
さて新しい住まいにだいぶ落ち着いてきたある日。歓迎会も兼ねてSくんの部屋でちょっとした酒盛りをしたそうで。ただ彼、下戸なんですよ。全然飲めない。だから他の人が盛り上げて。
「Sの引っ越し祝いなのに、俺達が酔っ払っちゃったよ~~」
みたいなね。Sくんはコーラとかお茶とか飲んで、皆のバカ話に相槌を打って笑ってる。
それで盛り上がりすぎたというか。お酒が切れかけてきたんですね。
「ああ、じゃあ俺追加で買ってきますわ」
Sくんそう言うとすぐに立ち上がって。
「いや、家の主にそんな、ねえ」「そうだそうだ、Sの歓迎会なんだから」
なんて他の面々は言うんですけど、飲んですっかり出来上がっているから立ち上がってもフラフラなわけです。買い物なんて到底無理ですよ。
「いいですよ。大丈夫ですから」
「コンビニまでちょっと距離あるけどいいか?」
「俺自転車あるんで」
「お~? 飲酒運転かい?」
「Sくんは飲んでないから。お前と違って」
「あ、こりゃ失礼」
なんてふざけあってる酔っ払いたちを置いて「じゃあ行ってきますね」とSくんは出て行ったんです。
「Sに買いに行かすよう、急かすような感じになってたかな」
「あいつ、いい奴だからなあ」
「だから頭のおかしい女に目をつけられたのかもな」
とか何とか、彼が引っ越してくる原因を作ったストーカー女の悪口を言い合って、彼の帰りを待っていたわけです。
しかしですね。三十分過ぎてもSくんが帰ってこない。お酒を買って往復するだけなら、自転車があれば二十分もかからないはずなんです。それなのに帰ってこない。
「Sのやつ、遅いな」
四十分、五十分を過ぎても帰ってこない。酔っぱらいたちも飲むべき酒がとうとうなくなって、段々酔いも覚めてきた。
携帯電話に何度連絡を入れても返事がないというから異常です。これはもしかしたら何事かあったのかと。自転車で事故にあったとか、事件に巻き込まれてしまったとか。
「……ちょっと探しに行ったほうがよくないか」
「そうですね」
善は急げと洗面所の冷水で顔を洗ってシャッキリさせて、Sくんを探しに皆で部屋から出てみたそうです。
彼が行きそうな道を順々に辿ってみようということになって。まずは寮の自転車置き場に行ってみようと。真夜中な上に備え付けの明かりもない寮の自転車置き場は相当暗かったそうですね。でもよく見えないけれど、暗闇の中でゴソゴソと何やら物音がする。
「Sー、いるかー」
と、真っ暗な自転車置き場に向かって声をかけますと、
「こっちですー」
と物音がしていた方からSくんの声がするんですね。
なんだ今帰ってきたのか、と探しに来ていた面々は安堵して。
「遅かったな、何かあったの?」
「すみません。自転車が動かないんで、まだ買いに行けてないんですよ」
おや、とそれを聞いた面々は互いに顔を見合わせましてね。そうすると、もう一時間近くSくんはこの暗闇の中で動かない自転車と格闘していたことになる。
いやいや、そんなわけなかろうと。
「何の冗談か知らんけど、まず暗すぎるんだよここさあ」
そう言って、携帯電話のライトでSくんがいるであろう方向を照らしたそうです。
パッと照らされた明かりの中で、Sくんは自転車のそばにかがんで何事かしているんですよ。
「おかしいなあ」
とか言いながら。でも彼らががまず気がついたのはSくんではなく、Sくんの自転車の荷台に座っている女だったそうです。
知らない女が自転車の後部の荷台に横向きに座って、なんだか嬉しそうに両足を交互にパタパタと動かしていたんですって。
これから彼と二人乗りできるんだ嬉しいな、みたいな感じで。わたしたちこれからサイクリングに行くんですと言わんばかりに。
人間の本能というのはいざという時すごい働きをするものですね。彼らは即座に「これ以上あれを見たらやばい」と感じ取ったそうです。
しゃがみこんで地面を見続けたり、あらぬ方向の壁を見続けたり、中には固く目をつむった人もいたそうです。とにかく見てはいけないと。
一方のSくんはというと、女の存在に一切気がついていないらしくて。
「おかしいなあ。なんでこの自転車動かないんだろう。変ですよねえ」
そう言われても、他の人たちはどうすることもできない。身じろぎすることすらかなわないわけですから。
「おかしいなあ。おかしいなあ。おかしいなあ。おか」
Sくんの声が突然止んだかと思うと、ガシャガシャーッと自転車が倒れるような音がして。反射的に皆、Sくんがいた方向を見たんです。
すると視線の先でSくんが自転車の上に突っ伏して倒れている。荷台に座っていた女の姿は忽然と消えていて影も形もない。
「救急車ー!」
泡を吹いて倒れているSくんを見て慌てて救急車を呼んだそうです。
結果から言えば、Sくんは急性の脳梗塞でした。幸い日常生活を遅れる程度には回復したけれど、今も若干の麻痺が残っているそうですね。
意識を取り戻したSくん曰く、買い物に行こうと部屋を出てからの記憶が一切ないと。それで他の面々が斯々然々こういうことがあった、と説明して自転車の荷台にいた女の容姿を伝えたところ、
「あの女だ……」
と、Sくんは顔面蒼白。それで後日、皆で神社に行ってお祓いを受けたということです。その成果か、以降は何も問題ないそうなんですね。
でも未だに。あの女を目撃してしまった人たち、飲み会の席で誰かが一人で場を抜ける場面にあうと、ゾクッと悪寒が背筋を走るそうです。
あと、自転車の二人乗りとかもぎょっとしちゃう。たとえそれがドラマやアニメなんかでも。後ろの荷台にいるのが女の子だったりした日にはもう、あの夜に見た光景が嫌な気分と共に蘇ってくるんだそうですよ。
この記事は禍話で語られた怪談を元に作成されました。
文章化に際して元の怪談に脚色をしております。何卒ご容赦ください。
出典: 禍話 第五夜(2)
URL: https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/310905017
収録: 2016/09/30
時間: 00:00:40 - 00:11:30