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白い一日

誰でも一つや二つ歌詞の聞き間違いはあるもので、例えば「ウサギ美味しいかの山」なんてのは、もはや間違いを通り過ぎてもうひとつの歌詞として市民権を得ているといっても過言ではないと思う。中島みゆきにも「キツネ狩りの歌」という作品があることだし、狩猟ソングの一員に加えてあげてもいい。

ところで小椋佳に「白い一日」という歌があって、これがとてもやっかいだ。あることをするたびに必ずこの歌が脳内で再生される。静かに深く流れてくる歌詞の冒頭は下記の通り。

真っ白な陶磁器を
眺めてはあきもせず
かといってふれもせず
そんなふうに君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく

静謐としたその情景に作者は何を言おうとしているのか。このあと踏切の向こうにいる「君」は汽車が通り過ぎ遮断機があがると「もう大人の顔」をしているのだが、そんなことは今はどうでもいい。問題は冒頭なのだ。頭の中で「陶磁器」は「掃除機」に必ず変換されて再生される。掃除機をかけるということは誤変換された「白い一日」を聞くということとイコールである。

何度もスイッチを入れずにじっとその筐体と対峙してみようと思ったが、なかなか実行に移せない。わが家の掃除機は真っ白どころかオフホワイトでもない。本家の歌詞にある儚げな、あるいはつかみどころのない白でなければそんな時の経過に身を委ねようとは思わないのかも知れない。もっともほんとうにそんな一日を過ごすことが出来てしまったら「危ないぞオレ」と思った方がいいのだが。

そんなわけで「白い一日」は好きや嫌いの範疇からは大きくはずれたところにどっかりと腰をすえてしまった。作者には本当に申し訳ない。ちなみにこの歌は初めに井上陽水のカバーで馴染んでしまった。こんなシュールな思考になってしまうのは歌い手のせいかも知れない。


見出しのイラストは「500㎖」さんの作品をお借りしました。そういえば開高健に「白いページ」という濃ーいエッセイがありました。

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