誰かと向き合うことは己と向き合うこと:「ありがとう」について考える②
このnoteは
の続きです。
登場人物
わたし:ibitsu
だーさん:今年6月、ある本屋のイベントで知り合った同世代異性の友人。
興味のあることが近いので、月1~2回外や我が家で(外遊びはお金がかかるので)遊ぶようになった。
この数日図書館で借りた、某発達障害当事者が書いた本を読んでいた。(いろいろな本を読んでいるため、特別な意図はなし)
その中に
「ありがとうを言うこと」に関する項目があった。
著者曰く「定型発達者(と、著者本人が書いている)がよく使う ” ありがとう” という言葉は、自分は本当に感謝の気持ちがわいたときにのみ使う」そんな風に書かれていた。(該当の発達障害当事者全員に当てはまるのかは不明)
そうか、そういう人もいるのか。
ではわたしはどうか。
前回 ” ありがとう” について、わたしの状態を
「マクドナルドのスマイル0円並みと」書いた。
誤解や批判を恐れながら・・それでも正直に言うと
わたしの発する ” ありがとう” には
全てに感謝の意味が含まれているわけではない。
わたしは ” ありがとう” を言うことでコミュニケーションが円滑になった経験から、その後のコミュニケーションも円滑になるだろうという期待を持って使っていることが多い。
要するに「円滑になった」「円滑になるだろう」ということを信じている・・んじゃないかと思う。
(いちいち考えているわけではないので、本当のところは分からないと思いつつ・・)
だから
その著者は欲しくもないお土産に ” ありがとう” を言うことはない。
でもわたしはお土産が好みではなくとも ” ありがとう” を言う。
何かをもらったらお礼を言うのが当たり前という前提+コミュニケーションがスムーズだと信じている= ” ありがとう”
そもそもそんな風に考えることもせず、脳が身体に指令を出す以前にくちからペロッと ” ありがとう” が出てくる、というくらいのスピードを誇る。
もはや反射反応の域。
わたしが読んだ本は成人済の著者とその母親の共著で、何かをもらって ” ありがとう” を言うということについてその母親に
「あなたに何かをくれたことに感謝 ではなく その人があなたのことを考えてくれた時間に感謝する」と説明され、納得したようだった。
でも、わたしの
「マクドナルドのスマイル0円並み」の ” ありがとう” は感謝だけに発していたらとてもとても足りない。
スーパーマーケットの店員さんだって、オーナーでもない店で客が買い物をして本当に感謝の気持ちを抱いて ” ありがとうございます” と言っているのだろうか。(この場合は感謝より「ルール」という意識が濃いかも・・)
きっと挨拶の代用・・みたいなものなんじゃないだろうか。
むしろコミュニケーションの中の合言葉的なものであって、そこには感情なんてないんじゃないだろうか。
(すみません、まとまらないまま考えながら書いているので・・
上手く伝わるかどうか・・以前の問題かも。)
ではわたしはどういう意図を持って ” ありがとう” を使っているのか。
と考えてみるとそれは
感謝 の表現
嬉しい の表現
受け取りました の表現
↑ だから前回書いた喫茶店で「だーさん」からお金を受け取った時、つい ” ありがとう”が出たのだと思う。
それでいいよ の表現
として、代用して多(乱)用している。
ようなのである。
前回の「ありがとう」について考える①の中で
『わたしは ” ありがとう” を言われたいのか、言わせたいのか。
言われなかったら何もしないのか。』
と書いた。
わたしは感謝されたい(だけ)わけではなく
相手の発する ” ありがとう” から
それでいいよ その優しさ合っているよ 受け取ったよ
という答え合わせをして安心したかった、のではないか。
だから ” ありがとう” を言われなかったことは「感謝されず不快」というよりは「わたしがしたことが相手にとって望ましいことではなかったのではないか、と不安になってしまう」
と思うに、今日のところは至っている。
番外編
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