誰かと向き合うことは己と向き合うこと:「ありがとう」について考える⑥
このnoteは
からの続きです。
登場人物
わたし:ibitsu
だーさん:今年6月、ある本屋のイベントで知り合った同世代異性の友人。
興味のあることが近いので、月1~2回外や我が家で(外遊びはお金がかかるので)遊ぶようになった。
誰かと向き合うことは己と向き合うこと:「ありがとう」について考える②
で
相手の発する ” ありがとう” から
それでいいよ その優しさ合っているよ 受け取ったよ
という答え合わせをして安心したかった。
” ありがとう” を言われなかったことは「感謝されず不快」というよりは「わたしがしたことが相手にとって望ましいことではなかったのではないか、と不安になってしまう」
と、自分の気持ちを明確にできたわけなのだけど
「不安」という言葉を
家族でも恋人でもない立場の人間が発しても良いものなのか。
ということに、しばらく悩んでいた。
ではこの不安を伝えぬまま友達として付き合いを続けようとした場合、どういうことになるのか。と想像してみると
察し続ける しかない。
「来るってことは楽しいんだよね??」
「全部食べったってことはおいしいってこと?」
「挨拶はタイミングを逃してしまったんだよね。」
または
「おいしいね!」「楽しいね!」とお手本を見せる。
そんなこと ずっと続けるって
無理じゃね?
人と長らく
察する(しなくては)
というコミュニケーションを正しいと「せねば!」と己に課してきたわたし。だからこそ相手にも「察してくれ!」と思ってきた。が
40代半ばようやく「これでうまくいったためしがないぞ」と気が付いて
今、言葉でのコミュニケーションを実践したいわたしは、察することができるとしても「したくない」のである。
もしも自分の気持ちを伝えなかったとしたら、いつかきっとこの関係が苦しくなってこれまでわたしがしてきたように
いつか「静かに(何も言わず)その関係から立ち去る」
ということになっていただろう。
こちらからは連絡せず、誘いをやんわり断ることを続け、相手の記憶から徐々に消えることを願う。
だってそうまでして「だーさん」と友達でいる理由が、今わたしにはないもの。
(あ、こういうこと書くと「きっとむこうだって」という思考がわいてくるけれど、考えていいのは自分のことだけ。あちらのことはあちらが考える。と言い聞かせる。)
だからこそ伝えられた、ということでもある。
「この人しかいない」という思考では言えないことも
「この人でなくてもいい」と思えれば言えるということはある。
だからといって怒りの勢いを使って、ヤケクソ気味に言うのではなく
自分の気持ちを説明する。
という技術を習得したい。
これはコミュニケーションの中でわたしが最も苦手とする「ネガティブを伝える」の練習。
これまで、ネガティブな気持ちを伝えられず逃げ続けたことで
もう行けない場所や、もう会えない人がいる。
馴れ合えば互いに失礼も増える。
「いやだ」と言えず不満が溜まり、自分の言動さえも見張り失敗を許せず苦しくなって、結局手放してしまう。
人生後半
そういうコミュニケーションを、やめてみる、の実験なのです。
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