大河ファンタジー小説『月獅』45 第3幕:第12章「忘れられた王子」(3)
第3幕「迷宮」
第12章「忘れられた王子」(3)
カイルは聡い子であった。聞きわけのよすぎることが不憫に思えるほどに。
「あぶないので、宮から出てはなりませんよ」「多くを望んではなりません」「剣も弓も、手にとってはなりません」「アラン殿やラムザ殿とはちがうのです」
たくさんの禁止の言葉でカイルを縛った。むごいとは思うたけれど、なにかを禁じるときには必ず「お母様といっしょに居たければ」と添えた。幼子にとって母と離されることは恐怖に近い。それがカイルを守るためであるとわかっていても、子を恐怖で縛ることにサユラの胸は軋んだ。カイルの伸びるはずの芽をひとつずつ手折っているのだと、その度に胸に抜けない棘が刺さった。
後宮には六つの宮がある。王太后の宮を金剛宮、王妃は真珠宮を、貴嬪のサユラは翡翠宮を賜っていた。淑嬪のアカナは玻璃宮である。黒曜宮と柘榴宮は使われていない。
それぞれの宮は土塀で囲まれ、後宮の正殿である星雅殿と柱廊で結ばれている。
翡翠宮には噴水のある池と果樹のなる庭があり、このせいぜい百メートル四方の空間がカイルの世界のすべてだった。庭園を訪なう鳥や虫、小動物とたわむれ、朝露をまとった蜘蛛の巣を観察していることもあった。同じ年頃の遊び相手のいないことを不憫に思い、子猫と鷲の雛をエスミがどこからか貰いうけてきた。猫をシュリ、鷲の雛をハヤテと名付け、彼らはカイルの唯一の友となった。常ならば王子には家臣のなかから歳の近い子息が童子に選ばれ、遊びと勉学の相手を務める。成長すると彼らがもっとも忠実な側近となる。アラン皇太子の葬儀の折に自決した三名の若者も童子より仕える側近であった。どの王子の童子となるかによって、一族の将来の栄華と不遇が決まる。権力争いは、幼いころより始まっているといえよう。
一度だけ王が「カイルの童子に候補がおるそうだ」とついでのように仰せのことがあった。「もったいのうございます。ですが、カイルは病で床に臥せることも多いので、まだ早いかと」とサユラが申しあげると、それっきり興を失くしたのか再び話にのぼることはなかった。ラサ王妃の産んだ王子にしか王の興味がないことは幸いでもあったが、父王からも忘れられる吾子が哀しくもあった。
童子だけでなく、師傅もつけなかった。
歩きはじめてまもなく、カイルは文字に興味をもった。「カイル様は、もう、字が読めるようです」侍女のひとりが目を輝かせて報告してきた。まだ二歳にもなっていなかった。翌日には、翡翠宮はその噂で明るくなった。妃嬪どうしの関係とは別に、それぞれの宮の侍女たちの間で小競り合いが絶えない。王太子を擁する真珠宮の侍女たちから、あからさまに見下げられることも多かったものだから、カイルがたった一文字か二文字読めただけで「カイル様のほうが、アラン様よりも優れている」とまるでわが事のように自慢する声が聞こえてきた。
眉をしかめたのはエスミだ。下女たちは共通の井戸に水を汲みにいく。一刻も早く彼女たちの口をふさがなければ。殿上の侍女だけでなく下女まで一人残さずサユラ妃の前に集めた。
「皆がカイルのことを慈しんでくれること、ありがたく思っております。カイルが文字を読めたことをわが事のように喜んでくれることも。それゆえ、妾からお願いがあります。カイルが微妙な立場の王子であることはわかってくれるであろう。どうかカイルの無事を願ってくれるのであれば、真珠宮を刺激せぬよう、お願いできないであろうか。悔しいことも多かろう。なれど、カイルの成長の喜びは翡翠宮のうちだけに留めおいてもらえぬか。妾はカイルに玉座を望んではおりませぬ。母として、ただ無事に育つことを願っておるだけ。皆が子に願うのと同じ。妾のささやかな願いのために苦労をかけますが、どうかこのとおりお願いいたしまする」
サユラは椅子から立ちあがり、正座をすると床につかんばかりに頭をさげた。
貴嬪の土下座に侍女や下女はどよめき驚愕する。貴人に触れることは許されていない。「もったいのうございます」とわななく嗚咽が宮をゆるがした。
この日を境に翡翠宮は心をひとつにした。おそらく真心からの所作であったのだろうが、言葉数は少なくとも人の心を深くつかむサユラの器量に、エスミは母になって強くなられたと感じ入った。
この騒動もありカイルの才が外に漏れることを恐れ、師傅をつけなかった。ただし書物は望むだけ与えた。
(to be continued)
第46話に続く。
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