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【4通目】静けさからうまれる愛——クリストフ・バタイユ『安南 愛の王国』【書評】

拝啓

一年でもっとも澄んだ空がみられる季節になりました。暖かさを求めてお日さまの方ばかり向いてしまいますが、本当に青い空は、太陽を背にしたときに見えます。後ろから暖めてもらいましょう。

さて、あなたが水の都へ迷い込んでいる間、こちらはメコン・デルタのまとわりつくような湿気を耐え忍んでいました。それでもご紹介するのは約束どおり、フランス文学。クリストフ・バタイユの『安南 愛の王国』です。

フランス革命前夜の18世紀末、7歳のヴェトナム皇帝の訪仏と死をきっかけに、ルイ16世は宣教師と兵士をヴェトナム・サイゴンに向けて派遣する。厳しい航海の末にサイゴンへとたどり着くが、布教のため現地の人々の暮らしにとけ込もうとする修道士たちと分裂したフランス兵たちは、新しい皇帝の下のヴェトナム軍によって全滅となる。生きのびた修道士たちは祖国と大きく違う自然環境や風習に戸惑いながらも、信仰が根付いていく手応えを得て、さらに奥地へ入っていく。しかし時がたつにつれ、本国との連絡も途絶え、あらたな生活への途上で、少しずつ信仰を失っていく。

物語をひと言であらわすなら、悲劇なのでしょう。しかし、愛を手に入れて物語は幕を閉じるので、読後は悲しみにつつまれることはありません。むしろ静かな抒情が残ります。またも静謐せいひつという言葉がふさわしいです。美は人を沈黙させるとは、このことです。

この静けさは、筆者が主述ひと組で文を作る「単文」を多用していることが大きいです。フランス語の原文は、3語または4語で述べられている文が多いそうです。あまりに簡潔な文だと、むしろ翻訳するのが大変だろうなと思うのですが、訳者は辻邦生先生。そう、あの『手紙、栞を添えて』の往復書簡をかわした辻先生が翻訳しているのです。『西行花伝』もそうですが、冬の青空のように、とても澄んだ日本語なのです。このような文章が書けたらいいのにと、つくづく感じます。

ひたすら形容詞を削いだ簡潔な文体であるにも関わらず、登場人物はとても魅力的に描かれています。優しさと強さを合わせ持つドミニク修道士。聞き上手で聡明なカトリーヌ修道女。旅の途上で、言葉を交わさずとも、互いに尊び、支え合う。表面的なおこないや言動よりも、より本質的なことを見通していくのは、信仰の有無とはまた別なのでしょう。二人の人生に立ち会えて、本当によかった。

残念ながら、ベトナムは訪れたことがありません。映像として目に浮かぶのは、やはりフランスの作家、マルグリット・デュラス原作の映画『愛人 ラ・マン』です。黄土色をしたメコン川の情景が目に焼き付いています。もちろん原作も読みましたが、映画に近い『北の愛人』よりも『愛人 ラマン』の方が好きです。

また、この『安南』をはじめとして、装丁がとても素敵なのです。カバーはタイポグラフィだけ。しかし、本来は宣材でしかないはずの帯が一体化して、ものすごく印象的なデザインですよね。何とか8冊まで買い集めましたが、さらに別の本もあるようなら、どうぞ教えてください。

フランスの小説や文学を紹介するにあたり、実は別の作品を考えていました。しかし、あなたの書評という迷宮に入り込んでしまい、こちらもあらためてオールタイム・ベストを出すことにしました。

次こそ、フランス本国を舞台にした小説・文学を語りたいです。あなたも偏愛の1冊をどうぞ教えてください。あなたがつむぐ言葉たちに夢中です。

そうそう、太陽を背にして青空を写真に撮るとき、露出の調整ができるならば、1段暗く設定してみてください。宇宙色の空が撮れます。

既視の海

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