見出し画像

「推すとはこうありたいものだ」押しを持つ人の作法について

いつからか聞くようになった言葉があった。
それは「推し」という。
推しとはなんぞや?
調べてみると見えてきた推しの正体。
推しとは自分が応援する支持するとかの意味があるようだ。

つまり「私は○○を推している」と言ったらそれを支持しているということになるらしい。

そこで推しというものについて分析してみることにしたので良かったら読んでみて貰いたい。

見習い編

自分が推す物の存在のことを知って好意を持ったり普及して欲しいと思えば見習いになる。
もっとも重要で基本でもある気持ちが備わっているのが条件となる。

初心者編

推すことにした物についての知識を学び、どのような歴史があるか、どのような評価を得ているかなどというようなことを知るのがここの所になる。
準備、勉強をして土台固めを行ったりもする段階と言えるだろう。

一人前編

知識を得ていよいよ推すための行動ができるようになるとこの段階になると言える。
お金をつぎ込んで色々グッズを買ったり応援したりしてファンの一員としての行動を積極的に行う。
さらには自分が○○を推していると堂々と自己主張をできるなど。
本格的な形ができてきている段階がここになる。

上級者編

活動ができてるのは当たり前、それだけでなく指導、普及などができている猛者を表す。
推している人物の中には自分の気持ちがコントロールできず暴走する人物もいる、そんな人物にストップを掛けたり間違いを正すことができる。
推している物について正確な知識を他者に伝えたり広めることで好感度や知名度を上げる、更には同志を増やしてともにに推しの活動を頑張る。
このように推している人々のリーダー的存在がいるのがこの段階、この段階にいる者達が知名度を増させたりイメージの低下になりそうな事柄に対処したりもして推しを守ったりもする。


このように「推している」と言ってもレベルは様々で同じとは言えない。
浅い推しがいれば深い推しもいるようだし一括りにはまとめられない。

以前は推しの活動をしている人々に対しての世間の人々の印象は良い物では無かった。

オタクはいい加減な人種だ。

オタクは不気味だ。

オタクは散財ばかりして生活力が無い。

このように散々な言われようをしていた時期もあったようだ。

しかし今では年配の方も若い人も男性も女性も推しの活動をしている。

誰が何を推していても恥ずかしくないし不思議でも無い、推す人にとって開かれた時代が到来していると言える。

ただし油断してはならない、このような状態は油断すればすぐに崩壊していってしまうのだから。

例えば私の母校の話などが良い例と言えるだろう。
私の母校は昔に悪さをしている生徒がいたため校則が厳しくなり自由が少ない学校になってしまった。
それを長年先輩達が交渉して規律良くして少しずつ締め付けを緩やかにしていってくれたおかげで私が入学した頃は大分ましになっていた。
しかし後輩の一部が再び悪さをしたため締め付けが増すことになってしまったということだった。

このようにほんの一部の人間が悪さをしただけで全体のイメージが悪くなり敬遠されたり区別されたりすることがある。
今の推しの活動が自由にできる環境が続いて欲しいと思うならそれを守るためにも礼儀正しさ、マナーなどを厳しく守るべきだと思う。
そうすることは自然と推しを守ることにも繋がるはずだ。
逆にそれができなければ自分達自身はおろか推しへの印象すら悪くしてしまい迷惑を掛けかけない、そんなことは推す者として絶対に避けるべきである。

私としては「推している物がある人間は信用できる」「推している物がある人間は真面目だ」とか言われるようになってほしい。
その位は推しがある人々ならできると私は信じている、彼らは凄いのだ。
何より彼らには推しを大切にして欲しいと思っているのもある。
生きて行くには衣食住さえ有れば問題はない。
しかし自分が打ち込める物、心を豊かにしてくれる存在が無ければ寂しい物だ。
ではそれはどのような物なのかとなるが、それこそが「推し」なんだと私は確信している。
自分達が推している物が自分達の心を満たし支えてくれている、こういうわけだ。
そんな推しを応援したり支持する活動ができるのだから最高だ。
そんな環境を守るのは当たり前だし必然なのだと思う。

なので推しがある人達には推しているのに相応しい最高の行動をしていってもらいたい。

それこそが「推す」という行動を極めていく事だと思うのだから。

以上

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?