トミ

はじめまして。40年以上高校の現代文教師をしています。「現代文」は「謎の科目」と言われ…

トミ

はじめまして。40年以上高校の現代文教師をしています。「現代文」は「謎の科目」と言われますが、そんなことありません。「生きにくい現代をどう生きるか!」が書かれています。現役の高校生も、かつて高校生だった方にもぜひ読んでいただければと思っています。

最近の記事

大人の「現代文」24……『舞姫』あらすじ8 エリスの家に行きました

家の中で  というわけで家に入った豊太郞(及び読者)の目に、エリスの生活が、現状があらわになります。  まず屋根裏部屋の内部がお粗末であったのは多言は不要でしょう。花瓶にその部屋に不釣り合いなお高い花が生けてあったのが、豊太郞の目にとまります。それがどんな花かは書いてありませんが、まあ一番高価な物が「花瓶の花」というところで、全体の図が明らかでしょう。  で、肝心のリアルな「現状」に関して、エリスは語るのですが……  ……と、その前に、語るエリスがいかに美しいかそれを落

    • 大人の「現代文」23……『舞姫』あらすじ7 同情から愛が始まる?

         まず同情から    美少女(先に言ってしまいます)エリスが窮地に陥っていることはわかりました。でも彼女がお母さんに!なんでDVをうけるのかはわかりませんね。エリスの言う、「男のいうことを聞く」がどういう意味かはまあ察しがつきますが……。しかしそれよりも、この瞬間豊太郞が特に意識したのは、「周りの目」でした。そりゃそうですよね。往来で美少女が泣いている、そばに何やら東洋人が立っている図を無関係な人が見れば、男が少女を泣かしている風にしか見えませんからね。  ですから

      • 大人の「現代文」22……『舞姫』あらすじ6 恋の行方

        始まり  要するに、この『舞姫』という小説の大きな骨格は、この豊太郞の超感動的でドラマチックな一目惚れが、どう成就し、どういう悲劇的結末に至るかを読み進めるということになるのですが、その過程で読者は、ただ単に、結末に至る過程を味わうのみならず、「なぜ、破局するのか」を深く考えさせられるわけなのです。これがこの教材が『こころ』とともに、高校文学教材で不動の王座を維持し続けてきた根本的な理由です。  でもまずは、恋の行方を「時系列的に」追ってみましょう。  豊太郞、まずは

        • 大人の「現代文]21……『舞姫』豊太郞の一目惚れ

          あらすじ4    さて豊太郞のホントのドラマが始まります。「僕って今までの僕でいいのか?」という「自我の目覚め」に悶々とする豊太郞の前に、一人の美しい踊り子が登場します。エリスです。  といっても、普通の男女の出会いといったものではありません。物語ですから、それはそれなりに、劇的な出会いではありました。まあ当時としては十分あり得るシチュエーションかとは思うのですが。    豊太郞のアパートは、大通りからちょっと裏通りに入ったところにありましたが、すぐそばに古刹(教会)が

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          大人の「現代文」20……『舞姫』あらすじ4 自我に目覚めた豊太郞のその後

          あらすじ4  豊太郞に戻りましょう。「自我にめざめちゃった」豊太郞には、突然不幸が降りかかってきます。それはそうでしょう。彼は大学の勉強をサボり始めるからです。いや「サボる」と言っては語弊がありますね。学問の興味関心が、彼が留学で課せられた「法律」から「文学」に移ってしまったからです。  これは上司は怒りますよね。そもそも官費留学ですから、初めから法律の勉強は義務であると同時に「業務」なわけです。ドイツの法律の勉強をしなくなったら、仕事しないに等しくなります。勉強するため

          大人の「現代文」20……『舞姫』あらすじ4 自我に目覚めた豊太郞のその後

          大人の「現代文」……19『舞姫』豊太郞の自我の目覚めは現代の高校生にも響く理由

           あらすじ4  前回、豊太郞の「自我の目覚め」は、明治の知識人の共有感覚だった(だろう)と書きました。ならば民主主義が浸透し、四民平等が完全達成された百五十年後の現在、豊太郞の「苦悩」は完全に「過去のもの」になったかというと、いやいやそうじゃありません。  これは高校生への説明の仕方にも拠りますが、豊太郞の苦悩はますます現代の高校生の苦悩と「被って」くるのです。え、なんで?と思われますよね。なぜなら、現代高校生も豊太郞と全く同じような葛藤を(こころの根本では)せざるを得な

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          大人の「現代文」……18『舞姫』あらすじ3 「僕」って何?

          あらすじ3 前回の続きです。長いので、編集し直しました。    簡単に言えば、豊太郞の「自我の目覚め」は明治という時代の「時代感覚」でもあったということです。なぜなら、この問いは、実に豊太郞のみならず、当時の鋭い知識人がおそらく共有した自問であったからです。ついこの間までは、「個」などというものは全く生活感覚にない生活をしてきたのが日本人です。武士に生まれたら「武士道」がセットされ、農民に生まれたら「農民人生」がセットされていました。そこには「その集団の掟」に従う人生しかな

          大人の「現代文」……18『舞姫』あらすじ3 「僕」って何?

          大人の「現代文」……17『舞姫』あらすじ2 僕って何?

          自我の目覚めなるもの1  豊太郞はベルリンでいわゆる「自我の目覚め」体験をします。これって皆さんピンと来ますか?我々の若い頃は非常に身近に感じたことばなんですが……。  この豊太郞の「自我の目覚め」どういうものか見てみましょう。  ちょっと私風に訳しますね。  こうしてベルリンの三年間は夢のように過ぎ去った。しかし、時が経てば経つほど抗えぬもの、それは、人間の本性というやつだ。これが気になってしかたなくなったんだ。そもそも僕って何だ?  というのも、僕のいままでの人生は

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          大人の「現代文」……16『舞姫』について、あらすじ1です。

          あらすじ1  いきなり、『舞姫』のポイントについて言っても思い出せませんよね。失礼しました。もうお忘れになってしまった大人の方にむけてちょっと最初からあらすじをお話ししましょう。  まず主人公は太田豊太郎という若者です。一人っ子で父を早く亡くしたため、母親は亡き夫の遺訓を胸にこの少年に厳しい家庭教育を施しますが、少年豊太郞は母の期待に応えるべく、一心不乱に勉学に励みます。そして常に一番、東大でもトップを維持し、空前の秀才の誉れ高く、なんと19歳で大学を卒業してしまいます。

          大人の「現代文」……16『舞姫』について、あらすじ1です。

          大人の「現代文」……15『舞姫』いまの生徒が???となるところ

           最大の疑問点  芥川から森鷗外に移ります。この両者がどういう点で繋がるのかは、いずれ触れたいと思います。   いまの生徒が、名作『舞姫』を読んで、多分一番引っかかるところは、あの場面でしょう。窮地に陥った豊太郞に天方伯の随員として訪独した親友相沢が、カイゼルホウフホテルで再会し、豊太郞に「心を込めた」忠告をする場面です。  相沢はこう(いう趣旨のことを)言います。「今回のこと(エリスとの一件)は君の生まれながらの弱い心から生じたもので、今更あれこれ言ってもしょうがない

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          大人の「現代文」……『羅生門』14変わらないもの・変わるもの

          不易流行2    もし私が、長年の教員生活を通じて、昔の高校生といまの高校生、どこが一番変わったかと質問されたならば、私はシンプルに「今の高校生はおとなしくなった」「優しくなった」「反抗しなくなった」「ある意味上品になった」などと答えるでしょう。前回のこの記事で言ったところの、「……させていただく」型になったということです。  あるいは、もともと根強くあった日本的な感覚「謙虚」が主流になったと言った方がわかりやすいでしょうか。ある意味の、「日本再発見」的感覚です。別の言

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          大人の「現代文」……『羅生門』13ちょっと横道にそれて

          不易流行  長いこと高校教師をして、15歳から18歳の日本の少年少女を見続けていると、自分をまるで「定点観測」しているサイエンティストのように感じることがあります。まあ「観測」というと人間をもの扱いしているようで失礼に響くかもしれませんが、あくまで比喩なので許してください。もうすこし文学的に言うなら、川岸に立って、流れゆく川を見ているといった『方丈記』ばりのあるいは『奥の細道』もどきの感想に近くなりますが鴨長明や芭蕉さんには恐れ多いので、分を弁え「観測」にしておきます。

          大人の「現代文」……『羅生門』13ちょっと横道にそれて

          大人の「現代文」……『羅生門』12『檸檬』との比較

          『檸檬』との比較  いずれ触れるつもりでしたがちょっと梶井の『檸檬』を見てみましょう。『檸檬』の冒頭に有名な?「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」という一文があります。主人公は、日々その「塊」に精神的に苦しめられていると告白するのですが、すぐに、その「不吉な塊」は二日酔いでもなく、肺病の憂鬱からくるものでもなく、いわんや大量の「借金」のせいでもないと宣言します。この「不吉な塊」は、そんな具体的な理由に拠らない、もっと「抽象的な」苦悩だぞ!すなわち「高貴な

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          大人の「現代文」……『羅生門』11明治人の葛藤

           日本人の美徳  はっきりいいましょう。明治(及びそれ以後)の先達は、無理をしすぎたのだと思います。自分の親、親の親、親の親の親、親の親の親の親……、から連綿と受け継がれてきた根本感覚、一言で言えば「伝統」を無視して、自分が学んだ「西洋」との合体を夢見たその裏返しに、ある種の日本への蔑視があった。西洋への憧れと自己蔑視。私は『羅生門』という小説の本質にそれがあったと思っています。  下人は、あくまで下人です。つまり、庶民の一人です。そこに象徴されるのは「当たり前の日本人」

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          大人の「現代文」……『羅生門』10芥川の悲劇の真相

          芥川の無理と悲劇  芥川は無理をしすぎたのだと思います。あれほど江戸を愛したんだから、その江戸への愛の根底にあるはずの、日本への愛を意識すれば、西洋的な「悪の美」に過剰にこだわることはなかったのではないかと思うんです。そうすれば、確かに「道徳感覚」は生活の中でさまざま揺らぎがあったとしても、その「道徳感覚」の根底にあるはずの「人を信じるべき」という「倫理」感・観の確かさには気づいたのではないでしょうか?  あくまで「研究」ではない「エッセイ」として語らせてもらうなら、芥川

          大人の「現代文」……『羅生門』10芥川の悲劇の真相

          大人の「現代文」……『羅生門』9これは人間性の「無悪」証明なのでは?

          『羅生門』の証明したものは何でしょうか?  前回の続きになりますが、国博体験で私はホントに考えてしまいました。でも正直言うと、長年おぼろげに思っていた『羅生門』への疑問が鮮明化したようにも思ったわけです。  それは、この作品は「悪」を描いていない。と言うより、むしろ「悪」の心を持てない日本人の心性・真性を逆証明している作品だということです。  それを、西洋では「悪」の芸術がある。だから日本にもあるはずだ、という思い込みで、無理矢理、形象化しようとしたのがこの作品であるとい

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