エッセイ:テクストについて
1.テクストについて
テクストとは何でしょうか。
本に書かれた文章、ネット記事、街の広告、取り扱い説明書、手紙、ある種の文字列。
テクストというのは、ようは書かれた文章です。
では、「書かれた」とはどういうことでしょうか。
もし、目の前にテクストがあれば、そのテクストを書いた人間がいるでしょう。
つまり、テクストとは、書いた人間がいたことを示す痕跡であるということ。
テクストは、それを書いた人間がいる、したがって、文章は「書かれた」ものなのです。
一方で、最近では、AIによる文章生成、というものがあり、必ずしも人間が書いたのではない、という反論があるかもしれません。
それについては、AIは、人間が書いた文章を学習して書いているわけですから、やはり書いた人間がいるのだ、と再反論できるでしょう。
つまり、人間はテクストに先立つということ。
しかしながら、人間という存在もまた遺伝子情報という意味では、テクスト的な存在です。
では、その遺伝子情報(テクスト)は誰が書いたのか、という根本的な反論がありえるでしょう。
わたしは、いまのところそれに応えることができません。
ですから、テクストは、人間が最初に書いたわけではなく、神が書いたのだ、と言ってみたり、自然の狡知だ、と言ってみたり、ようは人間よりも前に「書き始めた存在がある」ということを、わたしは論理的に否定できないわけです。
一体誰が書き始めたんでしょうね、ほんとに。
2.書くことについて
とはいえ、一般的には、テキストとは、それを書いた人間がいて、その意味で「書かれたものである」ということには同意いただけるでしょう。
では、書いた人間は、どのようにして書いているのでしょうか。
わたしは、文章を書くとき、「引き継いで書く」ということを意識しています。
「引継ぎ」というのは、どういうことかというと、あえて悪く言えばパクりであり、格好つけて言えば誰かの影響を受けている、ということです。
わたしは、文章を読むことが好きで、好きな作家がいて、好きな哲学者がいて、つまりは好きな書き手がいるわけです。
その書き手が問題にしたことを同じく問題にしてみたり、その書き手の文体を真似したりすること、それが引き継いで書くということです。
わたしにとって書くことは、わたしに先行する書き手を参照して書くということなのです。
「バトンを引き継ぐ」ということ。
バトンを引き継いだということを示すために、わたしはnoteで書いています。
つまり、自分ひとりで書いているだけではダメで、書いたものが誰かの目に触れる必要があるのです。(あくまでわたしの個人のテクスト観です。)
わたしの書いた文章に、影響を受けるひとはいないでしょうが、コメントをくれたり、応答を下さるひとがいます。(ありがとうございます。)
コメントや応答があると、わたしは、バトンを引き継ぐリレーに参加しているような、あるいは、「書くということの大きな流れ」の一部であるかのように感じます。
以前コメントで、「村上春樹の影響を受けていますか?」という主旨のコメントをいただきました。
わたしは、実際に村上春樹の文章が好きで、引き継いで書きたいと思っていたので、その指摘はとても嬉しかったです。
(変に文体を真似ているだけかもしれません、へたくそなモノマネです、そこはね、ご容赦ください)
さて、前節でも書きましたが、人間もまた、遺伝子という意味では書かれた存在です。
そこには、人間の遺伝子を書いた存在(神?あるいは自然の狡知?)がいて、極大化して言えば、その存在は、ようは最初にテクストを書き始めた存在です。
そのテクストを書き始めた存在は、わたしがそうであるように、誰か別の存在の影響をうけていたのでしょうか?
最初に書き始めた存在は、定義上、それより前にテクストは存在しません、ということは、前に書かれた文章を引き継いでいるわけではないはずです。
では、誰かの影響を受けていないなら、一体どういう風に書き始めたのでしょうか?
考えるだけでロマンが溢れだします。
3.二項対立について
わたしは文章を書くときに、「二項対立」を意識します。
まず問いを立てます、そして、その回答としてAとBという対立する二項がある、というようにして書き進めます。
この記事では、最初に「テクストとは何か」という問いを立てました。
そして、テキストには、それを書いた人間がいる、という回答と、AIによる文章生成のように書いた人間はいない、という風に書き進めました。
シンプルに言えば、「書いた人間がいる」と「書いた人間がいない」という二項対立です。
そして、二項対立をぶつけ合います。
世の中に存在する文章には、必ず書いた人間が先行している、AIが書いた文章だって、人間が書いた文章を学習して書かれたものなのだから、やはり、文章より先に、文章を書いた人間がいるのだ。
こんな風にして、AとBを戦わせて、Aが勝利するように書きました。
でもすぐそのあとで、「でも人間の遺伝子を書いたのは人間じゃないよね」という再反論っぽいものを持ってくることで、Aの勝利をキャンセルします。
回答を固定化せず、すかさず別の対立項に移行する。
わたしが二項対立で文章を書くのは、どちらかが正しいと主張するためではありません。
正しさはそんなに簡単に決められない。
そうではなくて、二項のあいだを行ったり来たりして遊ぶ。
どちらも成り立ちそうな論理を考える。
むしろ、二項に関係ない第三項を持ち出してもいい。
どっちが正しいという「決定」を宙づりにして、決定を回避する。
そういう風にして遊ぶのが楽しいのであります。
4.二つの共感について
「共感」というものは、二つある、と思います。
一つは、身体的な共感、もう一つは、論理的な共感です。
友人と話していて「分かる~」って言ってもらえるときは、おそらく後者でしょう。
友人に、わたしがつらいと思った理由や状況を説明して、「つらさ」を分かってもらう。
それは、わたしが「つらい」と思った経緯を「論理的に分かってもらう」ということです。
あるいは、論理自体は正確に分からなくても、「あなたにはつらいと思うような論理があったのでしょう」と、ざっくりと「分かる~」と言うこともできるでしょう。
どちらにしろ、論理的な共感には、説明する側には説明する論理があり、聞く側にはその論理を理解しようがしまいが、そこには論理があることを「分かる=認める」という構造があります。
一方で、身体的な共感は少し様相が違います。
身体的な共感は、悲しい顔を見て悲しくなる、というタイプの共感です。
それは、ちょっと極端な比喩をすれば、感情の感染と言えるでしょう。
悲しい顔を見て感情が感染し、自分も悲しくなる。
たとえば、映画を見ているときに、主人公が悲しい顔をしているときに悲しくなる。
楽しそうに遊ぶ子どもの映像を見て、楽しくなる。
そういう共感です。
あるいは、別の例を出しましょう。
たとえば、あなたも「会って話した方が理解が早い」という経験があるのではないでしょうか。
メールのやり取りや、LINEのやり取りより、直接会って話した方が早い、というあの感覚です。
それは、いくらかは「身体的な共感」が関わっているでしょう。
脳科学的に言うと、ミラーニューロンという脳神経の働きで、相手の顔の表情を読み取って、脳内で感情が再現されるということが関係しているようです。(突然の脳科学 笑)
メールを読んで論理的な共感をしても、実はそれが間違っていることってありませんか?
書いていることを読んで、この文章は悲しい話かと思う、でも実際には、こんなに滑稽な話があったのだ、というように、真逆の感情が表現されているようなことです。
ようはメール文章や、LINEの文章より、相手の表情を見ながら話を聞いた方が、相手が「悲しい話」をしているのか「怒っている話」をしているのか「面白おかしい話」をしているのか、いまいち良く分からない、ということがある。
メールやLINEといった、書かれた文章、つまりテクストでは、相手に共感し難いということ。
では、テクストによる身体的な共感は難しいのでしょうか?
5.ふたたびテクストについて
テクストは、身体的な共感が起こりにくいのでしょうか。
たしかに、顔の表情や声色といった、視覚や聴覚などの情報の方が、なんとなく身体的な共感を起こしやすいでしょう。
しかし、だからといって、テクストでは、身体的な共感は起きないわけではない。
たとえば、詩というものは、身体的な共感を想起させるテキストであると思います。
詩というテクストは、小説や物語とは違う仕方で書かれます。
言葉(テクスト)の表現によって、想像を誘発し、情感に訴え、感情を想起します。
(とはいえ、詩にはさまざまな側面がありますが、今回は感情的な側面に着目させてください)
小説のように、世界設定や、主人公の性格、登場人物の説明、出来事のリアリティ、いわゆる物語としての説得力とは違う構造を、詩は持っている。
テクストによって、直接身体に働きかけ、感情を動かす。
それが「詩」というものでしょう。
その意味で、詩というものは、ある種の感情誘発装置なのです。
わたしはポール・ヴァレリーの「若きパルク」という詩を読んだとき、この詩の情感深さに驚きました。
つまり、詩というテクストは、身体的な共感を生み出し得るテクストなのです。
6.書き始められた詩について
さて、最後に話を大きく飛躍させましょう。
テクストというのは人間が書いたものですが、人間というテクスト(遺伝子情報)は人間が書いたものではありません。
人間やその他の生き物、無機物・有機物含めて、その組成を書いた存在がいるということ。
つまりは、テクストを書き始めた存在がいる。
それは、必然的な存在なら神、偶然的な存在なら自然の狡知のようなもの。
そのような、書き始めた存在は、書き始めたときに何かを参照して書き始めたのでしょうか。
書き始めなのですから、その存在より前に書かれたテクストは無い、したがって何か別のテクストを参照して書き始めたのではないはずでしょう。
ではどんな風に書き始められたのか。
わたしには、どうにも、その存在は「詩」を書くようにして書き始めたのではないか、と感じるのです。
実際には、そんなことは知りえないので、あくまでロマンティックな与太話です。
わたしたちのテクスト(遺伝子情報)は、書き始めた存在によって詩として書かれたのではないか。
わたしたちが詩を書くのは、神(あるいは自然)が書き始めた詩を、無意識に模倣しているからなのではないか。
情感を表現するテクストである詩(=わたしたち)は、世界(これまた詩として書かれた世界)を動き回り、感情を開示する。
その感情を、わたしたちは、詩を書くことで開示する。
神(あるいは自然)が書いた詩の世界で、わたしたちはさらに詩を書く、という二重の構造。
さて、話を戻しましょう。
わたしたちは、書き始めた存在はどのようにして書き始めたのか、ということを考えています。
そして、わたしは無根拠に、直観的に、思うのです。
書き始めた存在は、詩を書くようにして書き始めたのではないか。
詩は、内に持つエネルギーの限りに動き回る。
その運動のエネルギーは、テクストを書く神(あるいは自然)の筆圧であり、筆の動きの残滓、あるいは、筆で漢字を書くときの「とめ・はね・はらい」の動きの余韻。
もしかしたら、神(あるいは自然)は、いまもまだ詩の執筆の途中かもしれません。
筆がとめられるたびに、わたしたちは悲しみ、はねたときに喜び、はらいのたびに踊る。
書き始めた存在は、いまもなお、書き始めから継続して書き続けている。
テクストというのは「書かれた」というように過去形で語られるべきものではない、テクストは「いまこの瞬間も書かれている」というように進行形で語られるべきものなのかもしれません。
書き始められた詩は、今もまだ書き続けられ、書き終えられていない。
さて、わたしは、ここでこのテクストを書き終えなければなりません。
しかし、テクスト自体は続くでしょう、わたしたちを書き始めた存在が、書き続けているかぎり。
おわり
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