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2024年初投稿がこんなお気持ち語りで良いのか(あるいは、Fulgur Ovidが、Vox Akumaが私にもたらしてくれたもののこと。)


お気持ちオタクって結局どう受け止められるの

オタク自身の年齢や対象の推しの年齢、性別、その他諸々の要因があると思うけれども、
どの界隈にも一定数、「お気持ち」を綴るオタクがいると思っている。
この「お気持ち」という言葉が使用者によっては、少し嘲笑のニュアンスが、卑下が、含まれているように私は思っていて実は好きではないけれども、結局のところ私がやっていることはお気持ちまき散らしなので、後者のニュアンスで今も用いている。
掲題の通りだけれども、この上記お気持ちを綴るオタクが正直、今いる界隈で受け止められているのか分からない。
このnoteという媒体においても、にじさんじ、NIJISANJI ENのことに触れている人は沢山いるのは分かっているし、ご自身の推しについて書き綴る人が沢山いるのも分かっている。
感想、レポ、レコメンデーション、そういうものではなく「お気持ち」にカテゴライズされるような内容を書く人は、どの程度の割合でいて、どう受け止められているだろうか。
 
かくいう私はお気持ちオタクだ。前主界隈の頃からお気持ち全開だった。
お気持ちを綴るツールがはてなブログからこのnoteに変わっただけで、主界隈の遷移があろうとお気持ちオタクであることは変わらない、生粋のお気持ちオタク。
私のブログが好き、と言ってくれて、私の文章を読んで当時のツイッターをフォローしてくれた人もいたし、何だったら推しも私のブログを読んでいた。
推しが比較的文章を読むことを厭わない人で、エゴサも良くするタイプだったし、
特典会でブログに書いた内容を話題にしてくれることも多かったから、
敢えて検索除けもせずに平気でお気持ちを書いていた。多分、お気持ちオタクが推し本人にもオタクにも受け入れられ易い土壌があったんだと思う。
でも、当時は。当時は、なので今は全くそんなことは無いけれど、私は周りにもそれなりにいたお気持ちオタクと接する度に、とてつもなく自分のことを嫌になったし、そんな気持ちにさせる彼女達が憎らしくて、妬ましかった。
推しが所属するグループ、もしくはそのグループが所属する事務所に所属している先輩や後輩グループのオタクの中には数人ずつくらい、ちょっとした有名お気持ちオタクがいた。
皆、リスペクトを以てオタク達に受け入れられていた気がしたし、
これは嫌味でも何でも無く、他意も当然無く、愛情に溢れた、「そうそれ!それが言いたかった!」をそれぞれのユニークな言葉で表現することで、共感を集めるオタク達だった。
私の最も身近にいたお気持ちオタク数人も正にそんなタイプだった。
真っ直ぐで、「綺麗」も「汚い」も、丁寧に綴るオタク達。
現場でしか感じられない感情、推しへの想いがありありと伝わる、オタク達の文章。
彼女達のお気持ちを読む度に、文章そのものに対してではなく、オタクスタンス、みたいなものに対して「私はどう足掻いてもこうは在れない」と感じてしまった。
現場数、その現場に対してのテンション、その他諸々。彼女達が「在るべき姿」、「理想の「オタク」なわけはないことなんて、頭では理解していたけれども、感情は言うことを聞かなくて勝手に傷付いて、勝手に落ち込んで、勝手にみじめな気持ちになって、
勝手に彼女達に対して静かな敵意を向けて、
そして勝手に、界隈からフェードアウトしていった。
推しは確かにいつも私の書く文章が好きだと言ってくれた。
ブログよく読んでる、と、そう言ってくれた。
でも、私はもう彼、及び彼等について書くことが苦しくなっていたんだ。
そんな、生粋のお気持ちオタクで、同族嫌悪お気持ちオタク。
後者についての時制は「だった」だけれども。
生粋のお気持ちオタクだから、苦い思いをした癖に、いちいちオタクとしての主界隈が変わる度にお気持ちを綴ることをやめない間抜けです。
なので相も変わらず、今もこうしてお気持ちを吐き出そうとしているわけだけれども、この界隈にはどの程度、そういう人がいてどういう見方をされているんだろう、とは思った。
思っただけ。

最近は

最近はにじさんじのライバー以前に、NIJISANJI ENのライバーを追いがちだ。
以前、このnoteでも書いたけれども、NIJISANJI ENに興味を持つようになったきっかけはピオちゃん(Doppio Dropscythe)で、XSOLEILを入り口にして、
気付けばNIJISANJI EN勢の配信や切り抜きばかりを見るようになっていた。
大体はコラボをきっかけに、ありがちな話だが「よく知らなかったけれどこんなに面白い(可愛い、格好良い...etc.)の?」と感じたところから、興味を持つライバーが増える。
だから、ピオちゃん関連の切り抜きで、ふーちゃん(Fulgur Ovid)に対しても興味を持ったし、ふーちゃんに興味を持ったから、NoctyxやLuxiemを知った。
思い返せば、あっと言う間だったかもしれない。
ふーちゃんの持つデカダンでサイバーパンクな世界観や、恐らく「ギャップ萌え」辺りに分類されるのであろう溢れるチャーミングさにすっかり惹き込まれて、
Milord(Vox Akuma)の美しい低い声とびっくりするぐらいの創造力と推進力、それに加えて、(個人的には聞き取り易い)イギリス英語で繰り出される中学生男子みたいな下ネタに色んな意味で笑かされて、夢中になって。
こうやって彼等が「推し」として私の中で存在し始めると、結局のところお気持ちを言葉にしたくなってしまう。

とは言え具体的なことを書くつもりは無い

でも、別にふーちゃんや我が君についての「私的彼等の好きポイント」を明け透けに書くつもりは、毛頭無い。
て言うかそんなの、誰が楽しいってんだ。
私が書きたかったことは、ふーちゃんやMilordを通じてオタクとして「修正」が入った、ということ。むしろ彼等が「修正してくれた」ということ。何言ってるんだ、ですね。はい。
言ってしまえば、前主界隈で私のオタクとしての、推しとの距離感はおかしくなっていた。
べつにガチ恋じゃない。同担拒否でも無い。
でも、私は自分の推しのオタク、要は同担と自分を比較してしまう悪い癖を身に付けてしまったらしい。
彼女達はあんなに現場に行っている。
彼女達はあんなにチェキを引いている。グッズを買っている。
彼女達はあんなに特典会に参加している。
彼女達は私が違和感を抱いてしまった瞬間を普通に楽しめている。
推しをそのままきちんと受け止められる、もしくはある程度は自分自身で咀嚼出来ている。
そんな風に、私は彼女達と自身を比べてあまりのオタク不適合っぷりに落ち込んだ。
傍から見れば、私も「○○のオタク」としてラベリングされ、彼女達と同質の物として見られていたはずなのに。
そういう意味ではきっと、自意識も過剰だった。
そんな中でも推しは、対面やオンラインでの特典会で私に言い続けた。
「好きなように推して欲しい。」
「推し方なんて気にしないで欲しい。」
優しくて、多分、自分の出来る範囲でオタクを「個」で見てくれていたからこその言葉は、
結局私に適切な距離感を分からなくさせていった。
彼は悪くない。前主界隈のオタク達、同担達も何も悪くない。ただただ、私が上手く遣り過ごせずに、推しと向き合う時間を苦痛に感じるようになってしまっていた。
そんな風に、異常をきたしていた距離感が、まさかVtuberと呼ばれる人達に修正されるなんて思わなかった。これっぽっちも。
 
別にEN勢に限ったことでは無いけれど、彼等はオタクと自分との線引きがとてもクリアだ。
オタクひとりひとりをきっと「個」として見ていない。
FAや切り抜き、アセット、その他諸々ファンメイドの何かと紐づいて認識しているオタクはいるだろうけれど、多分、しっかりと「個人」にフォーカスはしていない気がする。
と言うか、し切れないだろうし。
そして考えてみれば当たり前のことだけれども、彼等は非常にオープンだけれども一方で、
自身のテリトリーを侵されることは強く拒否する。繰り返すが当たり前だし、それは好ましいこと。
その姿が、当たり前のことを当たり前に発する行為が、私にちょっとした納得感、みたいなものを与えてくれたんだと思う。
しっかりと自分達の間に線引きされていて、
それでもオタク達のことを考えていないということはなく、日々、発信・配信をしている。
可能な範囲で言葉を尽くしているだろうけれど、彼等についての全てのことをオタクは理解出来るわけではない。
そりゃ、そうだろう。
でも、むしろ、それって普通のこと。
オタク達それぞれに何か上下優劣があるわけでもなく、差があるとすればファン歴だったり、もうどうしようもない感性の差、みたいなもの。
うん。
気付けば、私は肩の力を抜いて、また「推し」を楽しめるようになった。

多分この先も

私は、彼等を信用している。
信頼ではない。信頼は語用として違うような気がしている。何故なら信頼は人柄をしっかりと捉えていないと出来ないことだと思っているから。
だから「信用」している。この信用は彼等の明瞭なライン設定だったり、
その上で楽しい時間を過ごそうとしてくれる前向きな気持ちの発露だったりに因るものだ。
Vtuberというその領域で、やりたいことをやりたいようにやって欲しい。
私自身も多分、その中である程度取捨選択しながら楽しむ。
 
こういう風に在れる、今のオタクとしての自分が少なくとも以前よりは好きだし、
きっとこれからもこういう形で好きでいられる、そう思っている。