踏み込みが語る来し方――殺陣と人物描写
去年の12月に怪我を負って、しばらく療養していたのですが、その怪我の原因を記録しておきます。
人に、説明をしていたのです。
映像作品の基本は脚本だと思っています。お話を良くするのも悪くするのも、基本は脚本。音楽や映像の力もそれはそれは強いものですが、破綻した脚本は何をもってしても救うことはできません。
ただ、時に、ほんの小さな芝居が数十行の脚本に勝ってしまうのも、映像作品の魅力です。
ある警官が事件の発生を知り、ダイナーの席から立ち上がる。しかし立った後で、残っていたコーヒーがもったいなくて、テーブルにちょっと屈みこんでカップに口をつける。
おそらく脚本には、そこまでの指示は書かれていないでしょう。しかしこの二、三秒の芝居が、見る者に「あ、この警官は意地汚いんだな」と理解させます。
『ジョン・ウィック』で好きだったのが、主人公が弾丸を再装填した時、必ずちょっと銃を傾けて、装填が無事に完了しているか(正確には、薬室に銃弾が入っているか)確かめていることです。
超人的なアクションの何にも増して、彼が油断のないプロだということを伝えてくれます。
去年の12月、私は人に、芝居によるキャラクター描写の話をしていました。
徳田新之助(『暴れん坊将軍』)と遊び人の金さん(『遠山の金さん』)では、殺陣が違うという話をしていたのです。
徳田新之助は、貧乏旗本の三男坊を自称するも、実は征夷大将軍徳川吉宗です。それがおしのびで町に出て、悪い役人を懲らしめる。悪人を相手に大立ち回りをする新さんの剣は、正統派です。
どんなに貧乏旗本のふりをしても、その剣が、彼が正規の剣術教育を受けた最上級の武士であることを証明してしまいます。
一方で、遊び人の金さんは、今でこそ町奉行の要職にありますが、若い時は本当に遊び人でした。
金さんの剣は、喧嘩殺法です。たとえ裃をつけてお白州に出座し、それらしく裁判を進めたとしても、彼の本質は桜吹雪の刺青のような無頼にあります。剣がそのことを証明してしまう。
(念のためですが、徳田新之助を演じた松平健が、将軍家御流儀の柳生新陰流を体得しているという意味ではありません。「そういうふうに見える」「そういうことを意図して芝居をしている」という話です)
具体的に言うと、こういうことです。
大勢の敵に囲まれ、ばったばったと雑魚を蹴散らす両人の前に、正対する形で敵があらわれたとしましょう。
このとき徳田新之助は、すり足で、上体を大きく崩さないまま敵を切り伏せるでしょう。油断なく周囲を見まわし、残心するはずです。
一方の金さんは、えいやっとばかりに足を上げ踏み込んで、重心を前にして斬りつける。どうだとばかりに周囲を睨みつけもするでしょう。
たったこれだけで、徳田新之助は洗練された剣を振るい、遊び人の金さんの剣にはケレンがあることが、見ている者に伝わってしまいます。
同じ殺陣でも、脚本には(おそらく)一行も書かれていなくても、芝居のわずかな差がキャラクターを、彼や彼女の生い立ちと来し方を雄弁に語ってしまうのです。
中村主水(『必殺』シリーズ)は、まともに太刀打ちをしても強いのに、たいてい敵の不意を打ってぐっさり刺してしまう。
主水はかつて剣を学んだけれど、何かが彼に武士らしい剣を捨てさせたことをほのめかします。
紋次郎(『木枯し紋次郎』)は、泥まみれになっても生き延びるために剣を振ります。逃げ、有利な立場を確保し、チャンスを見逃さない。
喧嘩殺法とはまた違う、野性のバイタリティーが剣から滲み出ます。
大河ドラマ『真田丸』では、真田信幸が鎧を着込んだ敵を相手に、組み付き、組み伏せ、鎧の隙間から刀を差していました。そのあいだ主人公の真田信繁は、弓を持つ敵を襲い、その弓の弦を切っていた。
この殺陣が表現したのは、戦士階級たる彼らの練度、彼らの生い立ち来し方だけではありません。
鎧の上から切りつけても人は死なないこと、飛び道具は何より恐ろしいこと、そして信幸と信繁のあいだに「鎧武者は任せておいていい」「弓は任せておいていい」という信頼があることを語っていたのです。
剣が無言のうちに人柄を語る。脚本が何十行かけても言いあらわし得ない世界のありようを、二秒の芝居が伝えてしまう。
こういう芝居を見ると、映像作品はやっぱり強いなあ、かなわないなあと思います。
まったく、金さんの踏み込みは、新さんと違って、こんなふうにオーバーアクションで……。
と振り上げた足を床に踏み込んだところで、腰を痛めました。
以上が、去年の12月に怪我を負ってしばらく療養していた、その怪我の原因の記録です。