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【展覧会レポート】マン・レイと内藤礼さん

神奈川県立近代美術館 葉山でマン・レイと内藤礼さんの展覧会があったので行ってきた。
この展示会に興味をもったのは、マン・レイがシュルレアリスムの活動に参加していたことと、今年行った瀬戸芸で豊島にある内藤礼さんの作品が大好きになってしまったからだ。
今年はあらゆるアウトプットをみて知見を広げる年にしたいので、時間を見つけてはなるべくアートにふれていきたい。

マン・レイと女性たち

マンレイの展覧会があると知り、ポスターをみて「お、」と思った。
メトロノームに目がついておる。。

マン・レイのオブジェ

昨年、一時期はまってコラージュ作品をつくっていたので興味がでて調べてみるとシュルレアリスムの活動に参加しているという。

シュルレアリスムといえば、私が一番すきな画家のマグリットのスタイルだったが、他の画家の人たちをあまり知らなかったので興味が出た。

写真・絵・オブジェ・彫刻という手段

マン・レイのことはよく知らなかったが、一番は写真家として知られているらしい。今回の展覧会も写真、絵、オブジェ、彫刻いろいろなものが飾ってあったが、写真家としてを押し出していたように思う。
芸術家は絵一本、写真一本など一つの媒体に専門性をもっている人が多いように思っていた(少なくとも私の知識の範囲内ではそういう人が多かった)から、多岐にわたる手法を用いて自分のつくりたい作品をつくる彼に親近感を覚えてちょっと好きになった。
写真撮影はNGだったので、思い出に残っている作品をそれぞれ書いておこうと思う。

①ヴィオレッタの偏見あるいは三美神
黒地に3体の腕と足と首が途中で切られたようなマネキンが配置されている絵は、使われている色が黒と白だけなのに、女性の体とわかるような不思議な絵だった。3体とっているポーズはバラバラだが、それぞれのポーズが女性らしい丸みや柔らかさが表現されていて、抽象画なのにとても具象的な絵でとにかく不思議で引き込まれた。
調べてみると、三美神はギリシア神話に登場する魅力(charm)、美貌(beauty)、創造力(creativity)の神で絵画でもよく描かれているらしい。ヴィオレッタは誰だかわからなかった。

②贈り物

《贈り物》1921/74年 アイロン、鋲 16.5×10.0×10.0cm 個人蔵(https://kawamura-museum.dic.co.jp/art/exhibition-past/2022/manray/

即興的に組み合わせたというこのアートがとても惹きつけられる。日常のものを普段目にしない形で組み合わせることで違和感を生み出すのがシュルレアリスムだが、違和感しかなくておもしろい。
贈り物としてアイロンに釘?相手にすごい敵意向けちゃってない!?
アイロンの平らな面に釘さしたらシャツビリビリになっちゃうじゃん!
しかも熱々のアイロンに釘とかとけちゃわない!?大丈夫!?

とか思っちゃうので自分がいかに常識にとらわれて生きているかを感じさせてくれる作品だった。アイデアは組み合わせでできるものとよく言われているが、いろいろ真面目に考えて自分のことを追い込みすぎちゃったらシュルレアリスムのぶっ飛びアートをみて自分を解放してあげよう。

③ニュッシュとポール・エリュアール

(https://kokoronotanken.jp/paul-eluard-surrealism-undou/)

詩人ポール・エリュアールとその妻ニュッシュの写真。夫婦の写真は他にもあったが、この写真が出す二人の中に流れるゆったりとした時間が見ているこちら側にも伝わってきた。

私は人が輝いている写真を撮るのが好きで、高校の頃たくさん人物写真を撮っていたが、大学になっていつしかその趣味もなくなってしまった。この写真を見て、写真は人間の生きている時間を永遠に残すからいいなぁと好きだったころの気持ちを思い出した。また写真とりたくなってきた。

恋人が多いマン・レイ

展覧会に行く前までマン・レイのことを女性かと思ってたくらいには無知だったのだが、彼は男性で、そして多くの恋愛をしていた。
生涯を通して3,4人の女性と深い関係を築き、それぞれの女性が刺激になり作風に影響する。

3,4人といっても同時期とかではなくて、ちゃんと別々の時期にそれぞれの人を愛したり愛されたりしていた。

展覧会のタイトルが「マン・レイと女性たち」であるほどに、彼は彼のそばの女性たちを題材にしていた。まわりの女性たちを愛して、理解して、作品に落とし込む。単純に羨ましいと思った。それだけの深く理解できる人が身の回りにいて。
一緒に展覧会に行った人はマン・レイのことを女好きと言ってた。まあその言い方も間違ってはないのだろうけど、でも作品に落とし込むほどに目の前の人を理解しようとして、向き合うことは全員にできることじゃない。しかもその作品がモデルになった女性や彼のまわりだけでちやほやされて終わる身内モノ作品ではなく、葉山まで来て、私のもとまで届いているからきっと一定の評価を受けている本物なんだろうな、と価値がわからないなりに考えていた。


コレクション展 「内藤 礼 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している2022」

内藤礼さんの作品は静寂を伴っている。

作品たちは天井が高い大きな窓から海が見える個室にあり、時間帯によって窓から差しこむ光が違う色になる。

瀬戸内海の豊島美術館がとても好きで、2022年は2回も行った。瀬戸内海は遠いから、近場で内藤礼さんの作品があると聞いて、とてもワクワクしていたのだ。

あぁ、また内藤礼さんの作品が見れるぞ!とワクワクしながら部屋に入ると拍子抜けするほどなにもなかった。なにもなかったというか、私の期待の大きさ&部屋の大きさに対しての作品のサイズがとても小さく、空間の余白が大きすぎて、なにもないという感覚になった。2,3分ほど部屋をぐるぐる歩いていると、その空間に慣れていく。小さいけど、強い力をもっている作品たちに集中させられていく。とても静寂で不思議な感覚だった。

空間の使い方がすごい。同じ部屋なのに、きっとこの部屋に作品がなければ、なにも感情はでてこないだろう。

ただそこに在る細いビーズが連なるような糸と、とても小さい鏡といくつかの他の作品があることで、その空間に私が在るということに気づける感覚。

コレクション展の名前に、「世界」が入っている。個人的に、作品に「世界」という名前をつけるのは結構チャレンジだなと思う。世界という言葉は、とても広義の意味を持っているし、人によって捉え方が変わるから扱い方は難しい。

だけどこの作品は、本当に、タイトルどおりに、その部屋にいることで、私がこの世界に存在していて、いまここにいることを自覚させられる。

天井の高い部屋、3mくらいの高さに設置された4cmほどの小さな鏡。そこに映り込む空。歩いて見る角度を変えていくと空ではなく、部屋が映り込む。

窓から差し込む海に反射してキラキラしている夕焼けの明かり。それに反射してキラキラかがやく細いビーズの糸。

私が部屋にはいった瞬間に思ったなにもないというインパクトから、数分もすると、小さい作品たちの美しさに気づけるようになった。
逆に、部屋に入るまで私のまわりにはたくさんの情報が溢れていたんだということにも自覚的になる。
マンレイの展示、展示を見終えたあとはスマホで時間をチェック、LINEで返信、展覧会に来ている人たちの姿かたち、話し声。脳が次々と情報を処理していた。部屋に入った途端、処理する情報がなさすぎることに私の脳は戸惑って、なにもない!と感じたのかもしれない。

瀬戸内海旅行でより思ったのは、さいきんの私は忙しすぎるということだ。まあ学生の頃から忙しかったし、忙しくするのも好きだったが、もう少し広い視野をもっていうと、技術が進歩して、労働は機械が代替してくれているのに、現代人はなぜかどんどん時間がなくなっている。

内藤礼さんの作品は、そんなわたしたちに余白を与えてくれる。大切なものはシンプルで、意外とそんなに多くないんだよと伝えてくれている気がする。内藤礼さんの作品は、処理する情報が多すぎて混乱してしまっている現代人にとても受け入れられているのかもしれない。少なくともわたしは救われている。












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