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小説「ある朝の目覚め」第六章

洞窟の中の寝床で大勢の女の小人たちがまどろんでいる。少し奥をのぞき込むと小部屋があり、魔女が大きな木製の椅子に座り目を閉じていた。わたしは小部屋に近寄る。そこには本棚があり、おどろおどろしい装丁の大きな本が並んでいた。きっと魔法の呪文や触媒の種類などが書かれているのだろう。わたしは魔女を起こさないように本棚に近づく。本棚には置き時計も置いてあった。時計の針は止まっているように見えたが、わたしが近づくとまた動き出したようだ。チクタクチクタク。なぜか針の音が鳴る度にわたしの下腹部に鈍い痛みが届く。わたしは置き時計の針を止めようと更に近づいたところで目が覚めた。

水曜の朝。おそらく生理最終日。痛みはかなり和らいできた。わたしは今回の生理も無事に終えられそうな感触を得られて、安堵しながら目覚まし時計を確認する。やはり今日もかなり早く目が覚めた。まなと話す機会をまた得られるかも知れない。嬉しく思いながらわたしは身体を起こした。

わたしは、ポールハンガーに吊るした服に着替える。今日は暖かそうだ。ソフトグレーの無地のパンツスーツに、薄いピンク色のブラウスを合わせて春らしい印象を添える。毎朝のルーティンを済まし、化粧をして髪を整える。いつもの柑橘系の香水を着る。食事を済ませて、ダイニングテーブルでノートを書き、バッグにノートと万年筆をしまい、春らしいライトグリーンのスカーフを首に巻きジャケットを着て玄関に向かう。全身鏡に向かって、表情を確認する。今日の戦闘服は問題ないことを確認し、笑顔を作り「いってきます!」と声をかける。




わたしは、今朝もほぼ開店と同時にスターボックス・カフェに入る。まなはフードコーナーで食べ物を並べていた。振り向いてわたしに気づくと弾けるような笑顔で挨拶をしてくれた。わたしも笑顔で挨拶をする。

わたしがレジカウンターに移動すると、まなは今日もフレンチプレスでコーヒーを淹れることを提案してくれた。わたしは頷き、会計を済ます。いつものカウンター席に移動し、まなの様子を見守る。

まなは昨日と同じ手順でフレンチプレスでコーヒーを淹れると、マグカップに注いで、わたしの方に向かってきた。「あや子さん、お待たせいたしました」と言ってわたしの前にマグカップのコーヒーと小さい紙カップに小分けにした氷を置く。

わたしは、「ありがとう」と言って、マグカップを手に取り、香りを確かめる。昨日感じた色鮮やかな花束のような色彩が頭の中に浮かんでくる。丁寧に息を吹きかけて少し冷ましてから、ゆっくりと味わいながらコーヒーを飲む。三分の一ほど飲んで、マグカップを一旦テーブルに置く。

今日は、まなは移動せずにわたしの前に立って、わたしがコーヒーを飲む様子をずっと見ていたようだ。わたしはまなを見上げて「やはりこのアルテミス・ブレンドは美味しいですね。なんと言っても香りの鮮やかさが素晴らしいです。コーヒーを飲みながら、春の花畑で花を摘んでブーケを作っているような気持ちになりました」と言った。

まなは嬉しそうな表情を浮かべて「そういってくださって何よりです。あや子さんは、繊細な感覚の持ち主でいらっしゃいますね。そのような香りと色彩を同時に感じる方は、感受性が豊かなのだと聞いたことがあります。あや子さんの大切な個性だと思います。これからも大事に育ててあげてくださいね」

まなは続けてこういった。「今日は『世界女性デー』ですね。この日も、私にとっては大切な意味のある日になります。本当は口頭で色々あや子さんとお話したいところなのですが、場所が場所ですので、昨夜お手紙を書いてきました。長い手紙になりますので、ご自宅に戻られて落ち着いた時にでもごゆっくり読んでいただけたら、嬉しいです」

そう言って、まなはエプロンのポケットから、洋形二号の白い封筒を取り出した。わたしは、手紙を受け取る。表面には「あや子様」とあり、裏面には「相川まな」と書いてある。きっと、昨日まなが話していた特別な思い入れについて触れられているのだろう。わたしは、そのような大切なことを共有しようとしてくれているまなの思いに感激し、少し頬を赤くしながら「ありがとう。後でゆっくり読ませていただきます」と答えた。まなも少し頬を紅潮させた様子で嬉しそうに笑顔で挨拶し、レジカウンターに戻っていった。

わたしは、受け取った手紙をしばらく触って感触を確かめてから、バッグにしまう。ノートを広げて、ここまでの出来事をメモする。まなの様子を見つめて、彼女の線画を描く。今日のまなは、いつもの髪留めではなくて、髪色に近い茶色のシュシュで髪を束ねていた。暖色系のブラウスにスターボックス・カフェのお揃いのダークグレーのエプロンを着て、白いパンツに白いスニーカーを合わせている。とても春らしい雰囲気だ。わたしは、まなの首元に光るアルテミスの象徴である満月のペンダントを忘れずに描く。

「あら、絵を描いていらっしゃるんですか?お上手ですね!」いつの間にか、まなが近寄ってきて、わたしのノートをのぞき込む。わたしはノートを隠したりはしないものの、かすかに頬が赤くなったことに気づく。

「わあ!もしかして私のことを描いてくださっていたんですか?」まなは嬉しそうにわたしに問う。わたしは素っ気なくうなずく。

「うふふ。恥ずかしいですけれど、あや子さんの大切なノートに私の記録も含まれているなんて感激です。未来のあや子さんがノートを読み返した時に、今日の私のことを思い出してくださるんですね」まなも頬を赤らめながらわたしを見つめて嬉しそうに言う。

「わたしにとってこのノートの記録はとても大切なものなんです。これからも毎朝、まなさんのことを描いても構いませんか?」まなは更に頬を赤くして、わたしを見つめてうなずく。わたしはまなが自分を犬系だと言っていた意味が分かった気がした。




水曜の午後。人事からのメールで四月から始まる来期の人事が発表された。メールに添付された資料を眺めていて、あるところでわたしの目がとまる。本社営業部第一セクションのマネージャに裕司さんの名前があった。驚きとともに、わたしは裕司さんの活躍を知ることができて素直に嬉しいと感じた。そして、今度は別の意味で驚く。わたしは、いま裕司さんのことを好意的に受け止められている。曖昧な別れ方をして半年が経つ。その間、わたしは裕司さんのことを記憶の奥底にしまい込んで忘れた振りをしていた。しかし、先週末から記憶の整理をしたお陰で、わたしは、裕司さんのことをしっかりと受け止めることができるようになったのだろう。

すぐに仕事に戻る気がしなかったので、わたしは休憩室で気持ちを切り替えることにした。廊下に出ると階段で一つ上の七階にある休憩室に向かう。一杯ずつ豆を挽いてコーヒーを抽出してくれるコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。自販機でチョコレートバーを購入し、インテリアのコーヒーの木の近くの椅子に座り、コーヒーを飲みながらチョコレートバーを口にして気分を落ち着かせる。

しばらくすると、向こうから山本誠さんがやってきた。誠さんは、わたしの顔を見ると小走りに近寄ってきて、挨拶もそこそこにこう言った。「来期の人事、もう見ました?」「ええ」わたしは、端的に答える。「与田さん、大丈夫ですか?」

誠さんはわたしと裕司さんとの関係を知っていたようだ。わたしたちは特に二人の関係を周囲に隠してはいなかった。それなりに社内の噂話に上っていたのだろう。裕司さんが本社に異動する際、社内ではわたしとのことがどのような話題にされたのか。それはあまり考えたくないことだった。

「誠さん、心配してくれてありがとう。わたしは大丈夫です」わたしは落ち着いて答える。そしてもう一言思いついて付け加える。

「わたしは、たぶん次の恋に向かっていると思うから。きっともう大丈夫よ」誠さんは、その言葉を聞いて、安堵したのか苦笑いしたのか曖昧な笑顔を浮かべながら、わたしを見ていた。




今日は定時で退勤し、帰宅した。まなの手紙が気になるけれども、封筒の厚みから察するにそれなりの文量が有りそうだ。一通りの夜のルーティンを行って、落ち着いてから読もう。わたしは、着替えて、洗濯機を回し、風呂に入る。洗濯物を浴室に吊るして浴室乾燥機のスイッチを入れる。完全栄養食品のパウダーをシェイカーで溶かして夕飯を摂る。食器を片付けて、コーヒー用具を出してカフェインレスのコーヒーを淹れる。

ノートにここまでのことをメモしてから、わたしは呼吸を整えて、改めてまなの手紙を手に取る。洋形二号の白い封筒。クリスマスカードなどを入れる少し小さな四角い封筒だ。封緘の代わりにコーヒーをあしらったシールを貼ってある。わたしは、鋏で端を切り、中から二つ折りにされた便箋を取り出す。A五サイズのクリーム色の便箋を広げると、可愛らしく、元気の良さも感じられる少し大きめの文字がびっしりと書かれているのが目に入る。




親愛なるあや子さんへ、

暖かな春の光が窓辺に届くようになり、毎日が少しずつ明るく感じられるようになりました。このような変わりゆく季節の中で、あや子さんと朝の時間を共有できることに心からの喜びを感じています。

「世界女性デー」を迎えるこの時期に、私が淹れたアルテミス・ブレンドをあや子さんにお届けできたことは、私にとってとても意味深い出来事でした。このブレンドには、私の幾つもの思いが込められています。

アルテミスの象徴するもの、月の女神として、また女性や子どもたちを守護する存在としての彼女の力は、私の人生の多くの節目に寄り添ってくれました。私は早熟な子どもでした。経済的には何一つ不自由ない家庭ではあったけれども、両親の仲良く笑う姿を見ることだけは叶いませんでした。

中学校を卒業する少し前には、私は自身のセクシャリティが人と異なることを自覚していました。しかし気づくことと受け入れることは別の話です。私は自分がどうありたいかについて悩み続けていました。そして、もう少しで中学校の卒業式を迎えるという時期に、あの東日本全体を揺るがす大きな震災が起きました。大津波と原発の事故、様々な混乱。学校は休みとなり卒業式は行われませんでした。私は、寄る辺のない心持ちで街を彷徨いました。その頃、街では計画停電が叫ばれる中で、このような困難な時だからこそ、人々の心に響く映画を届けたいと頑張ってくれているミニシアターがいくつもありました。私は、その言葉を頼りに、一心不乱に映画館に通い続けました。

『戦火のナージャ』、『ぼくたちは見た - ガザ・サムニ家の子どもたち』、『亀も空を飛ぶ』。名画の再上映も含め、様々な心を揺さぶる映画を観ました。その中で、一見地味ながらも、その後の私の人生を決定づける作品に出会いました。『おいしいコーヒーの真実』という作品です。いまはもう無くなってしまいましたが、渋谷の宇田川町にあったミニシアターで鑑賞しました。

あや子さんは、一杯のコーヒーの価格のうち、どのくらいの割合がコーヒー生産者に渡るか想像したことはありますか?実は、コーヒー生産者の手元にはほんの数パーセントしか残らないのです。当時すでにカフェオレでコーヒーを楽しんでいた私にとって、その事実は衝撃でした。コーヒー生産者たちは貧困にあえぎ、コーヒー農園を手放す人たちも多いとのことでした。この作品の中で、女性労働者の境遇にも触れられています。質の良いコーヒー豆を出荷するためには、病気や虫食いの豆を取り除くために、コーヒー豆の一粒一粒を、人の手で確認し選り分ける工程が必要になります。これをハンドピッキングといい、女性労働者たちが極端に低い賃金で行っているのです。私は、これを知って更に衝撃を受けました。

私はその時、二つの大切な決意をしました。一つは、社会的に不遇な立場にある女性たちを支援することです。もう一つは、レズビアンという自分のセクシャリティを受け入れ、肯定することでした。この二つの決意は、私にとって密接に結びついていました。自分自身を認め、誇りを持つことが、他の女性たちの痛みに共感し、支え合うための力になると信じたからです。

その後、縁あってスターボックス・カフェに入社することが出来ました。私が入社して少し経った頃、社で製作中の新しいブレンドコーヒーの名前が社内公募されました。その豆は、コーヒー生産に関わる全ての女性への尊敬と賛美を込めて作られたブレンドであるとのことでした。私は、子どもの頃から私を支えてくれたアルテミスの名前を提案し、採用されました。そうです。アルテミス・ブレンドは、私の付けた名前なんです。そして、社内公募の案には含めなかったもう一つの私の思いとは、アルテミスはセクシャルマイノリティを支えるシンボルのような存在ではないかということです。

アルテミスは、ギリシャ神話に登場する女神で、独立心が強く自らの道を切り開いた女神として知られています。彼女は伝統的な女性の役割に縛られず、自らの純潔を守りながら自然と共に生きる道を選びました。このようなアルテミスの生き方は、自分らしさを大切にし、社会の枠組みに縛られずに自分らしく生きたいと願うセクシャルマイノリティの人々に共鳴するのではないかと私は思います。このアルテミス・ブレンドには、私たち一人一人が互いを尊重し、支え合う世界への願いが込められています。

あや子さんなら、私の心の内を理解し共感してくださるのではないかと信じてこの手紙をしたためています。

これからも、私たちの朝の時間を大切にし、互いの人生に寄り添うような関係を築いていければと願っています。あや子さんとの出会い、そしてこれから先も続いてほしいと願う多くの朝に、心からの感謝と願いを込めて。

2023年3月7日 相川まな




わたしは、手紙を読み終えると、ぬるくなったコーヒーを飲み干す。このような真心のこもった真剣な手紙を人から受け取るのは初めてだった。まなの優しげな表情の中でも際立つ意志の強さを感じさせる視線。まなの意志は、社会的弱者である女性や子ども、そしてセクシャルマイノリティの人たちを支え、守るために闘うことを選んだのだ。

わたしは、自分の弱さを覆い隠し、自分が強くなったと思い込むために、化粧や衣装などの見かけの『戦闘服』の力を借りて闘う道を選んだ。それは誰のためか。わたしは、自分自身のために闘っている。まなは、自分のためではなく他の人々のために闘っている。しかも、彼女は見かけの『戦闘服』などで自分を守ることをせず、ありのままの彼女の姿で闘っている。わたしとは、目的も手段も正反対だ。

わたしは、そんなまなのことを心から尊敬し、そして惹かれた。願わくば彼女の隣に並んで立ち、彼女の目標である社会的弱者の支援を応援していきたい。それも親友としてではなく、伴侶としてパートナーとして、わたしはまなと共にこれからの人生を一緒に歩みたいと思った。

わたしは、不思議なことに、自分が同性のまなに恋愛感情を抱いていることを違和感も葛藤も無く受け入れていた。まなに惹かれる思いはわたしの中からごく自然に生まれ出てきたものだった。まなはわたし自身が無意識に受け入れていたバイセクシュアルというセクシャリティにわたしより先に気づいていたのかもしれない。

まなに返信を送りたい。どのような形が良いかしばらく考えて、わたしは立ち上がり、寝室に向かう。本棚兼ノート置き場となっている棚の奥に、贈り物の包装をした四角い箱がある。わたしはそれを取り出し、ダイニングテーブルに戻る。贈り物のラッピングを解いて、中身を取り出す。それは、昨年十月の裕司さんの誕生日に贈るつもりだった万年筆のインクセットだ。

わたしは、キッチンの洗い桶に流水を流し込みながら、万年筆のキャップを外す。ピストンを回転させ、中のインクを全て出す。ペン先を反時計回りに回して外す。ペン先を流水に通して中を洗浄する。万年筆本体の先端を洗い桶の水に付けてピストンを回転させ、水を内部に入れては出して、内部のインクを洗い出す。洗い桶の水がきれいになったところで、万年筆とペン先を拭いて、ペーパータオルの上に置き、自然乾燥させる。

わたしは、裕司さんとお付き合いしていた間ずっと、ノートをうまく使って気持ちの整理をすることができなかった。そのために、裕司さんとの間のわだかまりを深く突き詰めて考えることができずにいた。わたしと裕司さんとが一緒になることは難しかったかも知れない。それでも、わたしたちはより良いコミュニケーションを通じて、お互いを理解した上で交際を終えられたはずだ。わたしは、ノートに気持ちを吐き出すだけではなく、その吐き出した気持ちを整理し、心の奥に隠れている思いを言葉にすることで自覚するべきだった。そしてその思いについてじっくりと考え、行動に移すことで、自身のひとつひとつの言葉や行動をより良いものに変えていくことができたはずだ。

裕司さんから贈られた天冠にペリカンをあしらった万年筆に、裕司さんに贈るはずだったこのインクを入れて使いたい。そしてそのインクの色を見ながらノートを書くことで、裕司さんとの過去の恋愛に対する自戒を忘れずにいたい。そうすれば、わたしはきっと、同じような過ちを犯すことなく、まなと好ましい関係を築いていくことができるだろう。




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