ダビデの詩
素敵です。
5/11 (「バタイユ」) その特徴はなにだろうか。それは〈信じる者たちの共同体〉こそがほんとうの愛の共同体となることである。〈共に神を信じる者たち〉同士のあいだでのみ、真の共同性がありうる。一つの同じ信仰のうちに一致し(communier)、 一体化の感情 (communion)に結び合わされた真の共同体 (communauté) が可能なのだ。 (では、おずおずとキリスト・イエスが何か、何者か解らずも内心に掲げる ときがある ような人々のための、地下墳墓(や地下聖堂)でロ
キルケゴールは、彼の著作活動の最初から、常に二種類の書物を同時に出版するように計画していた。すべては、もちろん自費出版であるが、一方は、彼の実名で「信仰的・道徳的著作」を出し、もう一方で、様々な仮名を用いて「この世的、非信仰的著作」を出すというものである。 彼はこれらをそれぞれ「右手(聖なる手)の著作」と「左手(俗なる手)の著作」と呼んでいる。そして、「右手著作」と呼ばれる「信仰的・道徳的著作」の方は、今と同様、当時も、ほとんど読まれることはなかった。 最初に右手の著作として
(シュタイナー) 人間の魂の霊的な進歩はますます必然とみなされるようになるでしょう。そして霊的な進歩を拒否して、それに敵対するのは、自分の地上の重みの中で、地上の排泄物さながらに、宇宙の神の意志である進化から抜 け落ちることにほかなりません。
(ラカン) 眼差しは奇妙な偶然という形でしか、我われの経験の支えとして地平において見出されるものの象徴という形でしか、つまり去勢不安という構成的欠如としてしか、我われへと現れてはきません。(?)
(ラカン) 父、〈父の名)は法の構造でもって欲望の構造を支えていますが、父が遺すもの、それは、キルケゴールが 我われに示しているもの、つまり父の罪です。
自然的所与のままの人間がどのようにしてそんな直接性から抜け出し、自らを人間性として形成していくのか、人間化しつつある人間はどういう〈死の経験)をするのか、死を意識することと自己の意識の成立はどんな関係にあるのか、 その〈自己意識)の能力としての人間、「切り離す」という能力、否定する能力、間接性の次元に関わる能力となった主体は、自然的与件を対象化 し、働きかけ、自分に有用なものへと作り変え、領有化することで、どんな世界を創造していくのか、等を考察していく。 ・・・再び私へと結
よりよりよりより内密な義務 あたらしいことば 器の上に わたしたちの内に担われるキリストが (喜ばしき俗商です) れいがわたしたちをみちびく やがて来るものの萌芽 子の うれし やがてたかまりゆくこのひとたちが じぶんを愛することをまなべました (がらがらとおちるてん) そう取り扱ってはいけない 喜びよ! そうでしょ? 給うたもの 君を目指された言葉が 授けられ 望まれたままが見え 未来人間 ひとびとの間からいのちが立ち上がる時 美の眼下に繰り広
演劇、文学・音楽・美術が最も本質的なところでコミュニケートしようとすることは、なにかしら激しい力とパッションが私を超えて貫くような経験、私の定立性が破られて変容する経験、至高な瞬間の経験である。この経験はしかし、どうしても私が真に生きる経験として完了することのありえない過剰に貫かれている。私が(その能力を通じて) 関係することの可能な関係、つまり真の現前性という関係においては生きられないまま経験される余白の領域を含んでいる。いかにもがこうとその〈シミュラークルとしてしか生きら
(シュタイナー) 見よ、思考の感覚の光の背後を。 暗い霊細胞の中で 意志がからだの奥底から立ち現れる。 お前の魂を強く保ち 死せる思考を宇宙の無の中に流し込め。 そうすれば意志が 宇宙思考となって甦る。
処刑されずに投獄され、炭鉱とかで働かされ、他者との接触も許されず過重労働で生き永らえ死に絶えるイエス 「なぜわたしをお見捨てになったのですか」から十字架から降ろされ、手当てされ力も戻らず、弟子や信者達に力だけ移譲され抜け殻のようになって、最後は共同体からも疎まれ憎まれてゆくイエス
実際、私はつねに〈本来的な同一性)として現前しているのだろうか。〈私という人間=個人〉personne の統一性や整合性・一貫性は、それほど確実だろうか。 デカルト以降の思想・哲学(の本流)が、たとえばヘーゲル哲学がそうみなしてきたように、人間はいつも (そして既に)(自己の意識)なのだろうか。定立された〈主体〉なのか、その(能力)なのか。すなわち言葉に関わる能力、理性的にふるまい、作業する能力、〈労働〉する能力なのか。 たしかに「人間」はそうにちがいないのだが、しかしそれが
霊の衝動となって、 魂の周囲で働く 意志の力の中にまで 思考と感情を担え。 そうすればお前が 霊の高みからの身体であると知る。
高貴な愛となって、 魂を熱くする 感情の力の中にまで 思考と意志を担え。 そうすればお前は 霊たちの国の魂になる。
(シュタイナー) 純粋な熟慮となって、 魂を光で照らす 思考体験の中にまで 感情と意志を担え。 そうすればお前は 霊たちの仲間になる。
(「啓蒙のー」) 世界は一回りのものである。繰り返し繰り返し、同じものとして現れるモメントを ただ前に繰り返すだけでは、救いの言葉というよりは、むしろ空虚で強制的なお題目等しい。分類は認識の条件であって、認識そのものではない。かくて認識は分類を 再び分解するのである。
(シュタイナー) 教養を身につけることは大切です。しかし魂が進歩を遂げますと、プラトンを別の理由で読むようになります。プラトンの著作は、読者がその内容を追体験するときにのみ、意味を持ちうるのです。学ぶために読むだけでなく、読むことで何かが為されるからこそ読むのです。