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故郷を持たない者が抱く浪漫的心情のこと、またはその克服について 我亂堂 〜小林秀雄『栗の樹』を読んで〜

 こんにちは! 広報の二ツ池七葉です。今回は我々が出版している雑誌『ダフネ』の執筆者を知ってもらう取り組みの一環として、小林秀雄の『栗の樹』というエッセイを読んで考えたことを各々に自由記述してもらうことにしました。
 『栗の樹』は、数にして言えば2ページ程度の短いエッセイです。小林は文学を仕事にすることの大変さを軽く嘆いた後で、妻の話を本作の中で一つ紹介しています。簡単に要約すると、島崎藤村の『家』を読んで生誕の地を懐かしく思った妻が、故郷の信州まで馴染みの栗の樹を見に行くという、ホッコリエピソードです。小林はエッセイの最後を、このように締めくくっています。
「さて、私の栗の樹は何処にあるのか。」
以下、各々による本文になります。今回は我亂堂が記述します。是非、一読ください。

 数日前に一度、気温がぐんと下って、ついに秋が来たかと信じていたものだから、昼下りの照りつける太陽を反射して、ギラギラと烈しく光るビル群を視たときは、そのやかましいさまに眼は廻り、足取りは既に重くなっていた。九月某日、原宿駅から表参道を通って、渋谷駅へと無意味な散歩をしているわけだが、残暑の執念深さに耐えかねて、健脚には自信のある僕も、このときばかりはどうしようもなく草臥れてしまっていた。ひたすら歩いて、目的地がやっと見えてきた。駅ももう近い街路をのろのろと往くと、ふと、何かとても厭なにおいが鼻を突いた。そこらじゅうに放置された、飲喰いの跡から放たれているのか、はたまた、下水道の熱された空気が、何処からか漏れ出てるのか。何せ、この猛暑である。いづれにしても、この体験は或る記憶を想起させた。
 父親の赴任にしたがって、少年時の数年を上海で過したことがある。上海と言えば、古くから外国人の出入りが盛んで、各国の文化や風習が雑然と混在している国際都市のひとつだ。「魔都」という言葉は、先進性や繁栄の一方で、裏には多くの悪意や秘密が渦巻いているという、上海の独特な様相を形容するのに用いられることがある。古い言葉だが、言い得て妙という気がする。しかし子供の僕は、両親や兄妹とともに、ごく普通の暮しをしていただけだ。家庭生活として、何か特別のものではなかったはずだ。が、何気ない瞬間の、街角での強烈なにおいを、僕は記憶にとどめている。眼前に拡がる煌びやかな摩天楼が建ち並んだ光景との、不釣合な感じを覚えている。
 先ほど鼻を刺戟したのは、まさにこのにおいだった。近年、東京では、外国人観光客が大幅に増加したり、各所で再開発が行なわれたりしているらしい。問題点も度々指摘されておりながら、街並みの急劇な変化はもはや止められない流れとなりつつある。渋谷はその代表例だ。ぼんやりと眺めていたビル群が近づくと、その前面に複数台のタワークレーンが設置されているのが視えた。また、新たなビルが建てられるのだろうか。多国籍で、グローバルに開かれた、先進的な、そして「魔都」的な、さらなる都市計画が準備されているとでもいうのか。僕はここで、例の「栗の樹」の話を思い出す。小林秀雄の妻、喜代美の思い出の栗の大木というのは信州にあるから、その背景には、渋谷の街並みとは随分とかけ離れた景色が拡がっていることだろう。果して、この東京に「栗の樹」は見つけられるか。あのギンギラの摩天楼は、誰かの「栗の樹」なのだろうか。今、タワークレーンによって吊上げられている鉄骨のひとつひとつは、いつか誰かの思い出を語る材料となりうるのか。それとも、次の何かが建てられるまでの、刹那的で、無機的な物質でしかありえない運命なのか。東京も、あの異臭を放ちながら、あの異常に魅惑的な空気を振りまき続けるような「魔都」となるのだろうか。
 現在、僕は首都圏郊外の或るベッドタウンに暮しているが、ここを故郷と呼んだり、ここに「栗の樹」を見出したりすることの困難を思う。ここでもまた、この数年の間に新築のマンションや建売住宅が次々と並べられ、街並みの変っていくさまを目にしてきたから。が、それ以上に、この土地に対して、転勤族の児として生れた僕の視座は、あくまでもその外に在り続けてきたから。ひとつ処を定めることなく各地を往き来しながら生きてきた者が、なおも日々刻々と変りゆく流動的な街のなかに、故郷の面影を感じ取ることは難しい。何かを探そうと、決して度の合うことのないレンズを通して、烈しい自動車の往来を遠くから眺めているような、そんな気分である。東京や上海も故郷でないわけだ。時折立ち返ることで、心の落ち着きを取戻し、次の一歩が踏み出せるための、或いは再出発の覚悟が決められるための場所、そのようなものを故郷と言うならば、僕はあらかじめ故郷喪失者だったように思う。少年時、学校や友達が変り、それまでの記憶と断絶された新しい日々を迎えるたびに、己の一貫性や連続性についての不安を思い、自分がどうあるべきか戸惑っていた。立ち返るべき場所など、何処にも用意されていなかったのだ。しかしそれゆえにこそ、僕は確かに、他人より多くの熱情をもって、故郷を求めてきたはずだ。持たざる者の、故郷に対する浪漫的心情と言われれば、そうなのだろう。が、僕はきっとそれをやめることが出来ない。
 それでも、今では幾つかの考えるヒントを手にしつつある。一つに、故郷とは恐らく、先天的に準備されているものなどではなく、後天的に自ら再発見するものだということ。二つに、外的にはっきりと在るというより、むしろ内的に信じることでやっと見えてくるような性質のものだということ。三つに、何処か確乎たる感触を持っている一方で、絶えず己の再解釈に晒され続けなければならぬ代物だということ。不安な未来に対して踏み出すべき一歩を躊躇うとき、僕らは何処から来たのか、今何処にいるのかという問を未解決のままにしてる。ならば僕らは、過去を念入りに語り、どう生きてきたのかという自分自身の歴史を見つめなければならない。そうして絶えず語り直しながらも、その連続性を信じ、内なる価値尺度として大切に保っておかなければいけない。「栗の樹」とは、こういった努力の果てに立ち上ってくる、現在地と故郷とをつなぐようなもの、言い換えれば、今の自分と、かつて出逢ってきた他者や場所の記憶との、絆を執りもっているようなものではないだろうか。それは見つけるのに容易でないが、しかし、ふとしたときに見つかることがあるかも知れない。だから、自分を過ぎ去っていく、ありとあらゆる事象を(それが、思わず蓋を被せたくなるような類のものであったとしても)、大事に抱いているべきなのだ。故郷の手触りを獲得するために、そして確かな自分自身であるために、絶えざる過去の流れを引き受けなければならない。
 不安定な季節の変り目は、人の体調を狂わす。僕らはそのたびに自分の身体を気づかって、色々な工夫をする。これと何ら違わない。外界の急劇な変化を、人は本能として恐れている。浮足立つ心に平静を取戻し、困難な現在を乗り越えようと希うとき、僕らは不知不識のうちに「栗の樹」を欲望している。沸々と湧きあがってくる故郷を求める心は、例えばそれが不可能であるという理論的説明を以てして打ち砕かれるほど、柔なものではない。少くとも、その切実なる心の動きを、僕は擁護したい。郊外へと向う列車のなかで、暑さでふらふらになった頭を壁に凭れつつ、そんなことを思っていた。

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