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伊香保温泉にて

みなさんこんにちは。
同人誌ダフネのモロサカタカミです。
いつもは二ツ池さんがこのnoteやXの運営をしてくれているのですが、何か書き溜めて発信したいことがあれば載せてもらえるとのことだったので、この春伊香保に旅行をした時のことでも書こうかなと思い、投稿する運びとなりました。フィルムカメラで撮った伊香保の写真も載せていきますので、そちらも併せて楽しんでいただけたらと思います。
あまり引きがなくて不安なのですが、まあぽつぽつと書いていきます。

(伊香保の石段街 撮影はOLYMPUS TRIP 35)
(頂上の伊香保神社 おみくじの結果は末吉)

群馬県のほぼ中央に位置する渋川市伊香保は、温泉街として有名な街だが、近年は廃業したホテルや飲食店の廃墟が問題となっている。所有者が分からないため取り壊しも難しいらしく、東京の空き家問題と共通する課題であるといえる。問題として捉えがちな廃墟だが、個人的にはこれも一つの退廃的な美しさを持っているような気がするのだが、やはり観光地としては一刻も早い解決を求めているのだろう。

伊香保で迎える初めての朝、柔らかな冷たさで目が覚めた。ねじれにねじれた布団のしわをぼんやりと見ながら、うつらうつらとしていた。ウグイスの鳴き声が聞こえたので、窓を開けて外を見ると、さっと飛んでいってしまった。布団を畳んで洗面所で顔を洗うと、少し目が覚めてきた。窓から見える桜はまだ枯れ木のままだが、空気は春の陽気を覗かせていた。窓を開けて正面に見える茶色い山を眺めていると、改めて自分が東京から遠く離れた場所に来ていることを自覚した。ここは伊香保。

いつになく清々しい朝だった。旅先に来ているという非日常性からか、宿の食事と風呂が思いの外良かったためか、朝の光が素直に自分の体の中に入ってきた気がする。せっかく早起きをしたのだし、朝風呂に行こうと思い、着替えも持たずに部屋を出た。

入浴客は自分以外誰もいなかった。体を洗い、ゆっくりと露天風呂に足を入れる。風はなく、湯気がゆらゆらと揺れていた。目の前には高く聳える山々が見えた。結局何という名前か調べなかったが、綺麗な山々だと思った。頂上には雪が積もっていて、晴れていたので稜線がはっきりと見えた。

(山の名前は失念してしまった。枯れ木も山の賑わいとはよくいうが、見事なものだった)

水の流れる音だけがあたりに響いていた。どうにも静かすぎて怖くなったので、子供みたいに水音をチピチピチャパチャパとたてていると、水面に満開の波紋が咲いては消えていった。人の一生もこんなもんだろうかと思うと、少し気分が軽くなった。ゆっくりと風呂に浸かっていると、全く時間というものを忘れてしまう。
白髪頭の老人が扉を開けて露天風呂に入ってきたので、私はそそくさと風呂を出た。まだ寝ぼけているのか、脳の一部が麻痺したような恍惚とした時間だった。

さて、伊香保の地についても少し話していきたいが、伊香保に来て思ったのは、伊香保が非常に文化的な香りのする街であるということだ。竹久夢二記念館や、徳富蘆花記念文学館があり、この地が文人たちに愛されていたことが窺える。当時も保養地として人気だったのだろう。また、万葉集でも伊香保の地を詠んだ歌があり、歌碑も残されていた。

(スマホでの撮影 万葉集の歌碑 後半の展開でうぅんとなった)

伊香保には歌碑が多く残されているが、その中で特におっと思ったのが、夏目漱石が詠んだとされる歌碑だ。この歌碑によれば、この歌は夏目漱石ではなく、漱石が親交のあった(恋心があったという説もある)大塚楠緒子が漱石にあてたものだとされる。この歌がどちらのものであるかということよりも、漱石との縁を感じられたことが感慨深くなった。この近代化を見届けた孤独な明治人について、私は尊敬の念を抱いてやまず、最近調べているのだが、漱石についてはまた別の機会に話したい。

(こちらもスマホでの撮影 文学の小径にて)

さて、何事にも終わりがあるように、旅も終わりに近づいてきた。伊香保ではグリーン牧場や原美術館にも行ったが、長くなってしまうのでここでは割愛する。どちらも遠出をする価値はあるので、興味のある方はぜひ。

(グリーン牧場のシープドッグショー)


(原美術館ARC)

私は旅行中の移動時間が意外と好きなのだが、電車やバスの車内から、風景が徐々に変わっていくのを、お気に入りのプレイリストを聴きながら眺めることが自分にとって贅沢な楽しみの一つである。今回も、帰りのバスで藤井風の「満ちてゆく」(https://fujii-kaze.lnk.to/MichiTeyuKu)を聞いていると、心がふっと軽くなるような気持になった。この少年のような老人のような、不思議な青年の歌を聴いていると、春風のような清々しさを覚える。
冬が終わり、もうすぐ春になる。伊香保の春を見ずして東京へ帰るのは名残惜しいが、自分の見た景色も唯一無二のものだと思うと、行って良かったと思い、心が満たされた。

晴れてゆく空も荒れてゆく空も
僕らは愛でてゆく
何もないけれど全て差し出すよ
手を放す、軽くなる
満ちてゆく

藤井風「満ちてゆく」

旅行で私は少し自分を忘れることができた。それは忙しさからくる忙殺ではなく、自然との一体感からから無私の心だったと思う。
しかしいつまでも仙人ぶった態度でいるわけにもいかない。生活に戻ってきた訳だから自分の生活にも向き合わないといけない。英文学という巨大な門が私の前に立ち塞がっている。門を開けばそこには、ラファエロの《アテナイの学堂》のように、多くの文豪や批評家で溢れているのだろうが、私はまだその門に入る勇気が持てず、門の入り口あたりでウロウロとしている始末だ。

新宿に着くと、まず人の多さに驚いた。歩くスピードも速い。生活に戻ってきたことを嫌が応にも感じる。温泉に浸かりながら山々を眺めていた今日の朝が、遠い日の思い出のように感じてくる。無慈悲に進んでいく生活のリズムは長風呂を許してはくれないが、その代わりに時計の針に区切られない、「ただの時間」の大切さを知った、そんな伊香保旅行だった。


この春から新生活を始める方々も多いと思います。私たちの生活はどうしても非本来的なものになってしまいがちですが、自分が本当に楽しいと思ったり、時間を意識しない時間こそ、本来的な生き方のはずです。わがままではない、身の丈にあった(最近はこの言葉は否定的な意味で使われがちですが)生活を目指したいと、今回の旅で感じた次第です。
どうにも世の中が忙しなく、危なっかしい様子ですが、なんとかみなさん強く生きていきましょう。
それでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。

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