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テランガとは?セネガルをひとことで表現すると…

お久しぶりです。マンジャーラです。
最近は研究成果を本にまとめようと頑張っており、その過程でセネガルという国についてもいろいろな基礎資料を見直しているのですが、その中でふと自分に問うてみたこと。
セネガルを一言で表すと・・・なんだろう?
(そもそも日本はどうでしょうね。考えてみてください)
・・・というので、書いている下りが以下です。出版されるまえのフライングになりますが、これはぜひブログに載せたらよい内容かなと思ったので、少しですが以下、ちょっと補足ネタを付け足しつつ、貼り付けてみます↓

セネガルを表象する二つの言葉

セネガルという国の魅力を一言で表すのは難しいが、その国民性や地域の空気感を如実に表す言葉はいくつかある。

一つは、平和を意味する「ジャム jàmm」(実際発音すると、ジャンム、ジャンモにも近い?)であり、もう一つはもてなしの精神、ホスピタリティを表す「テランガteranga」という言葉である。(二つになっちゃいましたね・・・)
これら2つのキーワードは、政治家や宗教家の演説など公のディスクールの中にも日常的に登場するが、それ以前に一般の人々の認識の中で、非常に重要な位置を占めている。「セネガル・アムナー・ジャンム(セネガルには平和がある)」は、幾度となく人々の会話の中に出てくる表現であり、なぜ平和が「ある」のか、と問えば、宗教人なら誰しも「それは偉大な聖人の祈りがこの土地にはあるからだ」と答えるだろう。(こちらはとてもディープな議論なので、またセネガルのスピトークをする際にでも持ち出します)

もう一方のテランガについて。「Bienvenue au pay de la teranga (ようこそホスピタリティの国へ)」は、2014年にダカールでフランコフォニー国際会議が開かれた際にマッキー・サルが使った標語にもなっており、筆者の記憶が正しければ長い間セネガルの空港に降り立ったときにはじめに見る掛け軸に彩られていた言葉でもある[1]。

2014年に第12回フランコフォニー国際サミットが開催された際のダカール市内の立て看板 
画像の出所 https://www.au-senegal.com/sommet-de-la-francophonie-macky-en-tete-d-affiche,10275.html

 「テランガ」の語源は元となったといわれるteddが「尊厳をもって」といったような意味がある(Diouf, 2003)。オンラインソースでは動詞のテールTeeru「受け入れる、もてなす」が語源とされており(Wikitionnaire)、出典はないが語感が似ていることからも、よく関連して認識されている。Teeruといえば、名詞のTeeruは上の名詞形で「レセプション、(人やものの)受け入れ(とそれをする場所)」「船着き場」などの意味もあり、見知らぬものや人がやってくる、それを受けてもてなす場というような意味もある。ちなみにダカールでかなり有名な海辺のリゾートホテルの名前がTeeru bi(biは冠詞)である。
 「テランガ」が象徴的に示すものは、英語の「ホスピタリティ」―本来脅威であるはずの他者(敵)を自らの家に招き入れ泊めること、つまり宿を提供する―というアングロサクソン的観点や、日本語の「おもてなし」―客人に対する作法(本来は茶の作法)に基づく格別のこころくばり―とは重点が少しだけ違うかもしれない。
 国籍や身分にかかわらず持てるものを分け共にすることで客人をもてなす(Saye, 2004)、という観点からは類似しているが、筆者が観察した社会におけるテランガの実践的な意味合いは、端的には「食事を分け合い同じ食卓を囲む」ということである。
 誰か訪問者、来訪者が偶然来た時に備え、少し余裕がある家庭は余分に食事を用意し、客人に分ける、これがテランガの基礎にある。個人主義化の進むダカールではあまり見られなくなった光景だが、地方都市などでは今でも同居していない家族や親類、友人、近所に住む人などが食事時に(時にそれをあてにして)突然来訪することはしばしばある。

みんなで囲む国民料理、チェブ・ジュン(魚の焚き飯)。絵にあるように、食べるのに使うのは右手のみ。使わない左手の親指でお皿のはじっこを抑えるのが礼儀正しいとされている。(絵は筆者がフィールド調査時に描いた)

セネガルでは飢え死にする人はいない

 こうしたセネガルのテランガ文化は、恐らくイスラーム以前の異なる民族の伝統社会に既にあったものと思われるが、イスラーム社会における「もてる者が持たないものに与える義務」であるザカート[2]の実践や、同じく自発的な喜捨であるサダカなどとも概念的に非常に近いため、セネガルは元来よりイスラーム的文化が社会に根付いている、という認識にも通じている。

 こうした認識は、テランガの意味合いや需要が、より人々のベーシックニーズに近いところにあるからかもしれない。「セネガルは貧しいが、飢え死にする人は絶対にいない」というのが、セネガルの人々がいつも胸を張って筆者に主張してくれることである(あまりにもたくさんの人に言われたので、特に聞き取りの日などはなし)。なぜなら、どんなに貧しい状況でも、「お腹がすいた人、喉が渇いた人を見殺しにする人はどこにもいないから」。実際信者達との様々な移動のなかで、全く見も知らぬ家の戸や店の門を叩いて飲み水を乞う機会は何度もあったが、断られた試しはない。
 食べ物はもう少し難しいかもしれないが、間が悪く食事中に訪問してしまったときなどは、間違いなくお誘いの言葉だけは少なくとも受ける。「カイ・ニュ・レック(食べにおいでなさい)!」「ビスミッラー(どうぞどうぞ!:直訳は神の名にかけて)」が定型句だ。状況によるが、思慮深い来訪者ならば、少しだけ食べて腰をあげたり、大家族で小さなお皿をみんなで囲んでいると判断したら、低調にお断りすることも多い。
断るときの定型句は、いらない、ではなく「スールナー(足りてる。お腹いっぱい)」である。本当はまだお腹がすいていても、相手を思いやって「スールナー」と言う人もいる。

こうした習慣が、セネガルだけのものなのか、西アフリカやほかのアフリカ地域でも見られるのかというと、実はセネガルにかぎらず、特にサヘル地域のかなり広い範囲でみられる助け合い文化なのではないか、というのが私の主観的ではあるがかなり確かな実感である。

余談: あなたは食べかけのパンを道行く子供に渡すか

全くの余談になるが、フランスでギニア人の現在の旦那と会った当初、幼少期よりフランスで育った彼が、文化的には「フランス人」寄りの人なのかルーツの「ギニア人」よりの人なのか(ギニアはセネガルのお隣)、なんとなくわからないまま約束した初めのデートの場所が偶然パリのモスクのモロッコティーのお茶屋だったのだが、ミントティーを追加注文するユーロコインが不足した。(ポットに入ったミントティーを売りに来る店員に席で2ユーロを払ってもらう)
「2ユーロかあ、一杯分しかないし、分ける - On partage?(飲む?)」と筆者が手渡した飲みかけのお茶を全く違和感なく受け取った様子を見て「あ、この人はセネガル的な感じ(西アフリカイスラーム圏的なノリ)で、いける人なんだな」と感じたのを思い出す。(ちなみにコロナ前の話です。そして間接キスを狙ったわけではない)
日本で食べかけのもの、飲みかけのものをだれかに勧めたりしたら、しかもそれが道行く人だったりしたら(上の場合は違うが)、逆に失礼になるしドン引きされるだろうが、セネガルではまずまずある光景である。

画像は、自身の書いているコミックエッセイから。

 ニジェールやギニア、マリなど近隣の国でもこうしたベーシックニーズにより近い「ふるまい」文化がしっかり社会の根底にあることを考えると、「テランガ的精神」は西アフリカのかなり広い地域で浸透している助け合いの習慣なのかもしれない。
 サヘルの乾いた空気が満たす社会空間、日常空間では、見ず知らずの人も完全な他者ではないような、「本当に飢えたとき、見捨てられることはない」という不思議と安心のできる絶対的な信頼感のようなものが、人々の心の中でかなり大きな場所を占めているのは確かだ。

(文責 阿毛香絵)

参考資料
Jean-Léopold, DIOUF. Dictionnaire wolof-français et français-wolof. KARTHALA Editions, 2003.
Seye, Mame Aby. Téranga: naissance, vie et mort au Sénégal. Thèse de doctorat, Université de Caen Normandie, 2004.
宗教法人 東京ジャーミイ・ディヤーナト「ザカートとサダカトゥ・ル=フィトルの手引き」財団法人 東京ジャーミイ文書館、東京ジャーミイ出版会、2023年
URL  https://tokyocamii.org/wp-content/uploads/2023/03/2023.03.24.-%E3%82%B6%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%BC%95%E3%81%8D%E7%AC%AC1%E7%89%88.pdf


[1] ちなみにセネガル航空は、企業精神として「Esprit teranga(テランガ精神)」を標語にしている。
[2] イスラム教徒の義務とされるの五行(信仰告白、礼拝、喜捨、巡礼、斎戒)のうちの一つで、次のサダカが好きなように施しをする自由喜捨であるのに対して、ザカートは、困窮者を助けるための義務的な喜捨を指す。制度喜捨あるいは救貧税とも訳され、本来の意味は「浄め」。「一定以上の財産を所有しているムスリムが、アッラーの御満悦のために、一定の条件を満たしている者に財産の一部を支払うこと」とされる(東京ジャーミイ、2023年)

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