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創作日記 その9 寛和の変

こんな事件があったのは覚えていなかったのですが、内容を見て、子供の頃に「マンガ日本の歴史」(和歌森太郎監修)で読んだのを思い出しました。
現在考えている小説の下調べをしていて、出て来た事件です。

藤原兼家が権力を掌握するために、花山天皇を退位させて一条天皇を即位させる事件です。こう書くとクーデターなのですが、花山天皇の特異な性格が大きく関わります。

個人的には葉室麟氏の著作「刀伊の入寇」での怪人ともいうべき花山法皇のイメージが強すぎるのですが、史実からすると享楽的でロマンティストな帝だったようです。
父が精神疾患を患った気配もあり、それに対する恐れやコンプレックスがあったのでしょうか。奇矯な振る舞いがあったようですが(即位式とか)、ここには記しません。

藤原為光の娘・忯子を熱愛したようですが、入内から一年ほどで先立たれ、失意のどん底へ。
そこはロマンティストですから今で言うなら「永遠の愛」の誓いを立てたというところでしょうか、忯子を弔うため「出家」を熱望します。

時の帝ですから、出家するのはたやすいことではありません。
義父である大納言・藤原為光も義理の叔父にあたる権中納言・藤原義懐も止めます。彼らの未来が係っているからだけではなく、帝の享楽的な性格から、出家の意思が長くは続かないだろうと思ったからでもありました。

しかし、東宮の外祖父にあたる右大臣・藤原兼家からすると、帝に退位していただき、東宮が即位した方が将来が約束される訳です。
そこで兼家の息子・藤原道兼が「ご一緒致します」と帝を唆して、元慶寺にて出家。道兼の方は親の承諾を取っていないので、と帰ってしまいます。

帝が出家のために出内したと聞いた右大臣・兼家は三種の神器と共に宮中に閉じこもり、そこで一条天皇を即位させ、そこから兼家の家系が氏の長者として道長ー頼通と藤原氏の黄金時代に繋がる訳です。

という具合なのですが、実際に内裏から元慶寺に向かうのに、どういう道筋を通ったのでしょうね?などと考えています。

現代の山科へ向かうのに、どこを通ったのか想像しています。
元慶寺は今の御陵駅の近くみたいですから、府道143号ではないかと思っているのですが、国道一号や府道118号も否定は仕切れません。
鴨川に掛かっていた橋は、当時どのくらいあったのでしょうね?全ての条通りに橋があったのか、知りたいところです。
仕事場に持ってきた資料(仕事と関係ない資料です)だと、保元物語では義康と義朝は近衛大路と大炊御門大路から攻め込んでいますが、清盛は二条から迂回して三条から白河北殿に攻め込んでいるようです。
保元物語自体はまだ未読なので、そこの事情も確認が必要でしょう。

鴨川の橋を知りたい訳ではなく、当時の帝が元慶寺に向かった経路を知りたいだけなのですが、調べ出すといろいろと疑問が噴出してきます。

こんな具合で作品の形になっていくのでしょうか?
写真は元慶寺です。

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