母の命日に母からの命の授業を振り返る


3年前の今日、
2月19日に母が76歳で
亡くなった。

ガンで闘病の末、最期は
緩和ケアをしながら、自宅で朝8時40分に息を引き取った。

亡くなる2ヶ月前に家族と共に
実家に戻ったので、最後はずっと
一緒に過ごした。

今思うとあの時間は母から家族へ
の大きなギフトの時間であった。

母の病状が悪化してゆくに
あたり、だんだんと受入れ
がたいという、自我が強くなり、
母以外の家族の衝突が増えてきた。

自分の考え方のキャパシティを
増やす為、お世話になっている
アドラー心理学のカウンセラー
鈴木三穂子先生の講座を、兄弟
3人で受けた。

兄弟で机を並べて、家族間を良く
する為に学ぶ姿は、母からしたら
さぞ、喜ばしいことであった
であろう。

母は前の年の夏に受けた手術の
あと、せん妄という認知に近い
状態になってしまった。

訪問医によれば、せん妄状態
であったから、痛みが緩和され
それは本人は良かったと思うと
言っていた。

介護士である、妻は実家に
戻ってからは夜も横にベッドを
並べ、24時間介護をしてくれた。

そんな妻が

「一人でいるときにお母さんの
容態が急変してしまったら、どうしたらよいか、、、」

という不安を抱えていたので、
看取り士をされている、
知人の中屋敷さんに相談し、
看取りの勉強会をして頂いた。

こんな機会はなかなかないので、
当時、小学生や中学生の孫たちも
一緒に

「死とは何か?」

というところから、具体的な
最期の看取りの技術まで教えて
頂いた。

他にもいろいろなことが起きた。

2月の上旬、弟の第一子が妊娠中、
逆子になっており、帝王切開での
手術日が決まっていた。

手術日に入院の準備までして、
病院にいくと、なんと逆子が
元に戻っていた。

結果的に、葬儀など全て終わったあとに出産となった為、弟夫婦も葬儀に
参列できた。

。。。

3年前の朝、8時15分ころ、
ゴミ出しをするので、母の側に
いて欲しいと、妻に言われベッドの
横に座っていた。

あまり目も見えなく
なってきており、

「誰?」

と聞かれ

「団平だよ」

と答えたら

「あんたじゃないのよ」

と答えられ、

「あんたじゃないって
なんだよw」

と答えたのが最期の会話。

ゴミ出しから戻った妻と交代し
自室に戻った。

その30分後に、妻から電話で
母の死を知らされた。

私が自室にもどったあと、
看取りの勉強で教わった通りの
状態の呼吸になり、教わった作法
をし、ひざのうえに母の頭を乗せ、
そのまま息を引き取ったという。

看取りの学びがなかったら、
どうしてよいかわからなかった
と本人も言っていた。

最後の最後に、ひざの上から
見上げるように妻の顔を確認
したという。
その目が忘れられないと。

「あんたじゃないのよ」

というのは、最期、同じく
嫁に来た妻へ最後のバトンを
渡す儀式をしたかったのであろう。

その後、ぞろぞろと親族が
集まってきて、皆が悲しみに
くれる中で、ベッドに横たわる
母の顔が、とんどんとニンマリ
してゆくのが誰にも分かった。

「してやったり」

の完璧な最後で
あったのだろう。

ちなみに、私の誕生日は2月20日で
重ならないよう、一日前にして
くれた。

あと一週間おそければ、
コロナで葬儀も家族でしか
出来なかったタイミングでも
あった。

当時もいまも、悲しいという気持ち
はほとんどありません。

最期を家族と共に自分の思うように
自宅で息を引き取れ、ちょっと羨ましい気持ちと、家族へ様々な大きなギフトをくれた感謝の気持ちで一杯です。

母の愛は偉大です。

なかなか自宅でこんな幸せなな
最期を迎えることは出来ないと
思う。

鹿児島に向かう機上でこれを書いているが、そういえば、3年前の今日も、夕方から井上敬一さんとの知覧合宿の主催で、鹿児島へ向かうはずであった。 

今日、鹿児島に向かっているのはずっと合宿でお世話になった、一昨年、亡くなった特攻の母の孫、語り部鳥濱明久さんの息子でお父さんの跡を継ぎ語り部となった拳大さんの結婚式のため。

母と明久さんが調整してくれた
のだと思い、心から祝福をしたいと
思います。


追伸、

亡くなる2ヶ月前
「人は死なない」などの著者の作家であり、医師の矢作直樹先生の私塾の忘年会で、先生に母の容態を報告したとき、先生はにっこり笑って

「まぁ、また会えますから」

と言葉を掛けて頂いた。

師のこの言葉で悲しみでは
なく、ちょっとだけ会えない
寂しさに変わりました。

師の存在は有難いです。


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