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言葉を組み立てることと言葉で思考する事

リカレントだの生涯学習だの学び直しだの、逆にアンラーニングだの、とにかく変化の激しい時流に追い付け追い越せ、と「年をとっても学びなされ」、「変化し続けなされ」、ということが推奨されている。そしてそれは必然だという実感もあって、私は現在大学院に進学して今絶賛学びの最中。

相川七瀬も大学院に進学したと言うし、やっぱり迷える氷河期世代は過去の学びが生きない時代だということを嫌と言うほど実感しているし、敷かれたレールが通用しないことに対する焦燥感や劣等感もあるかもしれない。また、何より大人の学び直しのハードルは近年かなり下がっている気もする。社会の方から歩み寄ってくれてる感もあるわけだ。

探せば様々な資格学習講習や転職に伴うスキルアップ講座、ハロ―ワークでもリスキリングに特化した講習などを給付金付きで開催したりなどしているらしい。

さて、大学院って何を学ぶところだろう。分野によってさまざまだろうし、私のようにある程度年を取ってから経験値を持ち込んで「研究しよう!」ともくろむ人間はまた違う意図があるだろう。
私の当初の意図は「地域振興」「まちづくり」「博物館教育」「社会教育」「学校教育との連携」「地域資源の活用」がキーワードだった。ところが、入学して様々な文献や一緒に学ぶ学生さんと触れるにつれ、私の中の根本的な「学び」のとらえ方の概念が変化したのである。

認知の刷新は大変喜ばしいことだが、苦しいことでもあった。現に私はこれに適応するために2年の月日を費やしてしまう。社会人として長期履修制度を適用してもらっているので、修士課程に4年の猶予があって正直助かった。具体的に何が起こったかと言うと、以下のような新たな認知が私のもとに怒涛のように押し寄せたのだ。
●「理論」=「言葉で組み立てられている」と実感する
●思考はダイレクトに言葉に結び付くとも限らない
●思考の無い「言葉」で理論を構築することも可能である
●言葉を道具にしないと土俵にも上がれない
●思考を「客観」に落とし込むためのツールが「言葉」だ
●思考だけでは独りよがりだ
●独りよがりの思考を一般化するために言葉を使えた時、そこから研究の土台がやっと整う

…つまり、普段言葉を当たり前に使って生きてきたが、その当たり前の感覚のまま走り始めると大きな落とし穴にはまってしまうのである。今自分が持っている「言葉」という道具がどれくらい吟味され、メンテナンスされ研ぎ澄まされているかをまずは知るところから始めなくてはならない。

私が進学したのが文学院だからかもしれないが、「言葉」がこれだけの緻密な道具として扱われていることにびっくりした。

また、「理論」と「思考」と「言葉」に乖離があるのも新知見だった。私は世間一般の子育ておばさんとして生きてきて、この三つをあまり考えずに似たようなカテゴリーとして一つの籠に入れてしまっていたかもしれない。

アカデミックにおける「言葉」の信頼度、「理論」の強靭さに感嘆している。そして、実は「思考」はそのプロセスで必要になるけれども、表には出てこない、ということも。

以前、私は自分の思考や感性を表現するのに言葉は不自由でしかない、と思っていた。

思考や感性がその人のアイデンティティの本質だ、と捉えていた自分にとって「言葉」「理論」ありき、のアカデミックな世界は肌に合わない、とも感じたことがあった。ただ、いまはこれが一つの科学という手段であって、思考や感性が否定されているわけではないことを知ったので、そこまで卑屈に
はならない。

むしろ、自分の課題は「思考」「感性」というものを疑わずにそれを存在論的な自己証明の主軸として生きてきた事だな、と気づけた。これは私が「絵を描く」と言う行為の繰り返しで自己認識を積み上げてきたからに過ぎない。「思考」と「感性」を絵で表現してきたから、「言葉」は不便だしダイレクトに使えない、と思っていたし、アブダクティブに物事をとらえたまま描くことが出来てしまうから、理論を構築する、詰める、ということに必要を感じていなかった。また、逆に思考や感性を省いた言葉の組み合わせで積み上げていく理論にどうしても血潮を感じず、ひどい拒絶感に苛まれたりもした。

学問の世界、科学の世界は違うのだ、ということを教えてもらったのが大学院に進学し収穫したひとつのこと。全く違うステージにいた私は焦り、悩み、苦しんだけれども、その自分が立つ背を教えてくれた哲学者や教育者や科学者の理論にたどり着くことが出来て、今はちょっと安心している。具体的に言うと、知識観では「環境・状況に合わせて再構築される」というもの。デューイの「探求的学習」やプラグマティズムのオープンエンド的な知識観に納得した。もちろん、知識は普遍である、と言う確信に基づいた理論も、ある条件の下では必要だとは感じている。ただ、「知ることは行為する事」と言ったパースのように、不断に再構築されていく状況的なものが知識なのだ、という考えは私が絵を繰り返し描くときに得た手ごたえに似ている。

ここまでなんとなく体感でしか得ていなかった自分の考えを導いてくれたのもまた言葉と理論だったのだから、我ながら非常にアンビバレントな体験をしていると思う。大学院での学びは想定していた範疇の外側から自分の殻を突き崩してくれる。

そのことに気づけて良かった、とつくづく思う。言葉の世界の入口に立てた自分に希望を感じる。

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