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日本人はパラレルワールドを生きているのではないか

長文ファンの皆さまおはようございます。

私は長い間、一神教と科学はどう折り合いをつけているのか興味を持っていました。ある時に

「神は完全であり、完全である神がデザインしたこの世界は美しい法則で統一されているはずである。物理学は神の言葉を理解する方法だ」

という考えで整理がつく、という話を聞いて大変腑に落ちたことがあります。

世界はある法則で統一されているという考えは、仮に無宗教だったとしても西洋国の思考法の根底にあるように思います。この思考法がプラットフォームを作る発想に寄与していると思っています。

世界は8つの文明に分かれていると説いたのはサミュエルハンチントンでした。その中で日本は一つの文明として分類されています。時代が1990年代でしたから、日本の存在感があったことも理由だとは思いますが、一日本人として確かにどこか日本の考え方の根底に、違いがあるようにも感じられます。

以前NHKの番組でポケモンGOは日本的ですよねとコメントして流されて寂しかったことがあります。

私は日本の考え方に「見えている表の世界と、見えない奥の世界が同時に存在するパラレルワールド的な考え方」があるのではないかと思っています。

八百万もそうです。

昔から日本の漫画に、男性と女性が入れ替わる、気がついたら違う時代の違う人生を送っている、などがあります。

日本人は日常のどこかで、ふと綻びなり結界の破れなりに迷い込んでしまい、そこからもうひとつの世界を見てしまう、という世界の捉え方をしているようにに感じます。

世にも奇妙な世界のように。

それは主語がなくとも成り立つ言語であることも影響(または逆かもしれませんが)しているのかもしれません。

主語がないので指し示す出発点がない。日本語を客観的に聞いているとまるで、誰もが風景の一部のようであり、言葉を発している本人すら風景として話しているように感じられる時があります。

それが無責任や、主体性のなさも繋がっていると思います。それはそれで改善すべきところなのですが、日本のこころのあり方のひとつの表現系でもありそうで、スパッと切り捨てていいのか迷うところでもあります。実態のなさ、もののあわれ、幽玄。

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