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ここしばらくの涙もようについて

「年をとると涙もろくなる」ということの少しはじっこの方を、さいきん理解ができるようになった気がする。さいきん毎日泣いている。泣きわめいているわけではなく、さめざめと泣いているわけでもなく、目尻から涙が溢れるかどうか。視界がぼうっとなって、鼻と目の奥の方が少しツンとして、深呼吸をひとつ。そんな具合の涙加減が毎日のよう。

「年をとると」、というから何か「弱ってしまって」とネガティブな言い回しに聞こえてしまうのかもしれないけれど(そして少なからずぼくはそういうものだと信じていたし)、でもそうではない、きっとこれは自分の人生経験にそれなりの蓄積したものを認められたからであって、だれかが日々そこかしこで「達成していること」の尊さというか、ただ「した」こと、事実、がじつに尊いことである場合も大いにあり、その事実の重さが分かるようになったことと、その事実の捉え方がうまくなったこと(泣く方向に捉えられる能力とでも言えばいいのか)が理由なのだと思いあたった。

見聞きしたことに重ねられる、自分の中の何か。
それが、増えてきたんだきっと。と、思う。

親が子を思う気持ち、定年退職、結婚、出産、離婚、勝利、敗北、諦め、地道な努力、人を感動させる歌声、歌詞、親切、別れ、仲間、孤独、信頼、賞賛、病、老い、解散、希望、何かを託すこと、道を示すこと

それぞれに重なるものが、自分の中に。

今日も涙した(大げさに聞こえるけれど)、
夕暮れに吹く乾いた風が今年を振り返らせた、日がいよいよ短くなった
昨日も
また大きな出会いがあったと感じた、大切にしたいと思った
おとといも
その前も
日々どこかに、重なることができるものを、持っていたのか、持っていることに気づいたのか、または、時をかけて得たのか、それは何でもいいのだけれども、たぶん少し、こころが温かみを増した、気がする。

その日みた空の色も、
聴いた曲もよぎった不安も、歩いた距離も道も減っていく残高も、
経験と、ひと言で済ませることができるものが
日々そこかしこでだれかがしたことや、生まれた事実と何ら変わりなく
じつはそれぞれがとても偉大で、そんな偉大なことを日々生み出している
それを日常と呼び暮らしと呼び、
だからぼくらは偉大のかたまりのようなものなのだから、こころ動いて涙する要素はどこにでも、転がっていて、照らし合わせることができる経験も、積み重なって、その重さが涙腺をだんだんと、緩くさせるのだと思って
だから、これからもたぶん大丈夫。




そろそろnoteを書きたいなぁと、今日も書けなかったまた明日、と思いながら、半月を過ぎていました。
なかなかうまく言葉を起こすことができないけれど、ここにいてくれる人たちとのご縁はたいへん大切で貴重なものであると、だけは分かっているつもりなので、これからもよろしくお願いします。
寒いなぁ、そろそろ冬だな。
それでは、おやすみなさい。


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