2023.09.13 AM1:30

人に会いに行くことが、特別なイベントになったのはいったいいつからだろう。
大人になって、とおくない場所にいることがわかっているのに、声をかけることが難しくなった。すこし、腰が重くなった。そして気づけば会いたかった人は、もうとおくとおく、ほんとうに、遥かに、とおくとおく。
そんなことをくり返して、またくり返して、人との縁は途切れ、自ら手放したものであるのにそれに気づけないから、何とか手繰り寄せようとして。

これからは、それをできるだけ、やめようとおもっていて。


今夜は富山で一泊。
ずっとお世話になっていた人に、会いに行った。
4年ぶりに会う、昔は商売相手で今はすこし歳の離れた友人(と呼ぶのはすこし憚られるけれどきっと彼は、そう呼ばれることを喜んでくれるはずだ)。
今ここで交わされたもの、会話している今それ自体に価値を置くような、穏やかで優しい距離感が変わらなくて、ぼくはとても安心した。
テキストや行間では伝わらないこころの動きを、文字と音とであらわす全体的なものを五感をつかって感じとるような。熱や声のトーンや目線や、言葉になる一歩前の素材のようなものを大事に掬いとるような。
そんなやりとりが心地よくて、何だろうとても久々だ。
ただ、話していたい。
そう思えた時間だった。


ぼくはたいがい社交性がおかしくなっている自覚があるので、初見かそうでないかに関わらず人と会うこと自体ににストレスを感じることが多いのだけれど、会ったあとに「会って良かった」「勇気を出して良かった」とおもうことがほとんどなことも知っていて。
毎度律儀に同じプロセスをくり返しくり返し、こんなにいい時間を過ごしたのに、今日もやっぱりくり返した。緊張したし、ほんとうに会う必要があるのかと、新幹線に乗ったあとにも自問した。
でも、今日も答えは「会って良かった」だった。

人に会いに行くことは、これからもきっとずっと、特別なイベントだ。
でも、イベントの数は多くたっていい。特別も、たくさんあっていい。
きっと「会って良かった」だから、今日も次も、その次も。
きっと同じ感想を抱くから、今日と同じように、その次も。
人に会いに行くことをこれからも、ストレスに感じても腰が重くても、自分のこころの辿る先を信じて、続けていこうかなと、おもっています。というお話。

すこし空いてしまったけれど、また書くので良かったらお付き合いお願いします。
それでは、おやすみなさい。


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