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本質は中心にある訳ではないかも

月曜も友人とclubhouseで楽しくおしゃべりしました。

怪魚トーーークと題して「怪魚釣り」とそれにまつわる「エトセトラ」を友人の沖山さん@siegsigeとやぷさん@yapuzと話しているのだけれど、大体面白いのって「エトセトラ」の方。

例えば、、、

初めて行った怪魚釣行のターゲットが「ヨーロッパオオナマズ」なのに行き先は中央「アジア」のカザフスタンだった、とか。

モンゴルのガイドがマジで働かないのでイライラするのだけど、毎回ドラマチックな展開で魚が釣れてしまうので友情が芽生えてついつい使ってしまって、やっぱり毎回イライラする、とか。

コンゴに行くはずだったけど、そのロッジが襲われていけなくなった、とか。

その結果、急遽モンゴルに飛んで、気づけばヘラジカの肉食ってた、とか。

もはや、釣りの話ではない。

けど、それこそが面白いんですよね。

僕もかつて沖山さんたちとネパール奥地の超田舎へグーンシュという魚を釣りに行ったんですが、正直魚釣りの記憶は全くない。というか、正確には、全く魚は釣れなかったので実際魚釣りしてないんですよね。

けれども、トップの画像にのせたような石の上に川で洗った洗濯物を無造作に広げた写真とかを見返すと、あの日々が確かにあった事を思い出すんですよ。そう、とても大切な時間を過ごした気がするんですよね。魚は釣れなかったけど。

そんな事を思い出していると、前々回の怪魚トーーークに少し参加してくれた友人が話していた事を思い出しました。

「沖山さんとの釣りは本当にしんどい思いばかりしている、行く前日まで行きたくない。けど、振り返るとなぜか残っている。とても本質的な事に感じる。


本質的とはいったい何なんでしょう。

僕はついつい、ゆで卵の黄身のように、本質的なものは「中心にある何か」と考えがちです。

けれども、これまでの話を振り返るに、本質的なものはどうやら中心にあるとも言えなさそうです。それに、そんなに難しい話でもなさそう。

例えば、怪魚釣りにおいても、釣り自体はもちろんキーなんですが、僕や友人たちにとってコアではない。行く前、行ってから、帰ってからと。連綿と続くストーリーの中に様々な本質が散りばめられている気がします。釣りに思いをはせる事で、色んなことの解像度が上がってきて、本質的なもの発見に繋がりやすい状態になる。それによって、自分にとって本質的なものの発見へとつながっていく。もちろん、魚を釣る事それ自身が何よりもの本質だと捉える人もいるでしょうが、それは人それぞれ。

もう一年以上前にはなりますが、僕の所属するオンラインサロン、コルクラボにゲストで来られた「読みたいことを、書けばよい」の著者、田中泰延さんはバリバリの関西弁でこんな事を仰られていた事を思い出しました。

「人生のね、真ん中の部分だけなんか全然おもんないんですよ!上澄みの部分をかさ増ししてどんだけ楽しめるか、そこなんですよ!」

そう考えると、繰り返す日々も同じかもしれません。一人一人がその人だけの人生を生きている以上、そこで起こる様々な出来事は紛れもなくその人にとって本質的で尊いものの様な気がします。けれども、漫然と過ごしていると、それはただ過ぎ去っていく。そうならない様に、何気ない日々も丁寧に観察すれば、上澄みの部分に色んな発見があるかもしれません。

じゃあ丁寧に観察するって、どうしたらいいんでしょうね。引き続きもう少し、この事に考えてみたいと思ってます。

では、また。


怪魚にまつわるエトセトラについては、毎週月曜22時からclubhouseで怪魚トーーークやってますので、皆さんよろしかったらのぞいてみてください。(こんなややこしい話はしませんよ。)

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